2013年7月24日水曜日

坂西哲 東急・五島慶太の経営戦略

2001 株式会社文芸社

東急電鉄の五島慶太の経営手法は、鉄道とともに沿線の開発をいっしょに進めるもので、先輩格である阪急電鉄の小林一三のそれををならったものである。
ただ、五島の経営手法には、大学などの学校を誘致するという独自のものが見うけられる。
今では、東急沿線は高級住宅地としての評判が高いが、はじめからそうだったわけではない。
明治時代には、東京で働く人は市内に住んでいて、今の東急沿線は田畑や林であった。
渋沢栄一によって設立された田園都市会社が開発した住宅地も、はじめはあまり売れなかった。
そこへ、大正12年に関東大震災が発生した。
そのとき、東京や横浜は壊滅的な打撃をこうむった。
いっぽう、洗足に開発した住宅地に建てられた住宅は、ほとんど無傷であった。
これが、郊外の住宅地が売れるようになったきっかけであり、五島の会社にとって追い風となった。
また、蔵前にあった今の東京工業大学は被災し、校舎も消失した。
三田にあった慶応義塾大学も一部をなるべく広い土地に移転する計画を立てていた。
五島は、広大な土地を東京工業大学に対しては、蔵前の土地と等価交換、慶応には無償で寄付した。それとともに、周辺の土地の地価も上昇し、通学客も増えたため会社にも大いに利益をもたらした。
五島が誘致した学校は、そのほかにも多数あり、都立大学、学芸大学は駅名となって残っている。
五島は、みずからも東横学園を創設し、教育にも熱心であった。
鉄道経営には、旅客輸送、貨物輸送、観光輸送などの分野があるが、五島は、工場は誘致せず、学校を誘致したため、東急は通勤通学のための鉄道になり、東横線と新玉川線のターミナル駅である渋谷が発展することになった。
なお、渋谷駅も昔は今の場所にあったわけではなさそうである。
渋谷駅にいろいろな路線が交わるようになったのも、それぞれの経緯があるのだろう。

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