2013年3月18日月曜日

中島義道 人生を<半分>降りる


1997 株式会社ナカニシヤ出版

人生についての考え方には二つあって、ひとつは自分中心の考え方で、この場合、自分が死んだらすべては終わりである。
もうひとつは、言わば社会を中心とする考え方で、社会というものは、親から子、子から孫へと引き継いでいくもので、個人の死などは、必ず来る節目ではあるが、たいした問題ではないことになる。
60も過ぎると、自分中心の人は、どうせ残りの人生は、たかだか20年くらいでしかない、だから、これからは人生を半分降りて、世の中の雑事に煩わされず自分の好きなように生きようと思う。
社会中心の人は、80を過ぎても、あたかも自分が死ぬことなどないかのようにふるまい、この国の将来を心配したり、自分が生きているうちに実現できるかどうかもわからないオリンピックの東京招致に熱中したりする。
世の中全体としてみれば、社会中心の考え方の人のほうが多く、台風が来ても大地震があっても、何がなんでも出勤しようとするサラリーマンや公務員は、その典型である。
60を過ぎていても、政治家や経営者になれば、重い責任がのしかかり、かえって寿命を縮めてしまうこともある。
そうでない普通の人にとっては、60過ぎでは、自分中心の考え方の方に惹かれる人が多いのではないだろうか。
時間を過去、現在、未来と分けて考えると、過去はすでに変更することができず、現在は短く、未来は不確かである。そうすると、自分とは、もはや変えることができない過去の積み重ねということになる。
だから、60も過ぎれば、人生にとっては、既に確定した長い過去のほうが、未来よりも重みがあるわけである。
人生をを半分降りて、自分中心の生き方をするとは、自分の時間を大事にしようとする生き方でもある。
過去においても、もっと若いころから、半隠遁の生活に入った人たちがいた。
彼らの意思とは違って、のちの世の人に大きな影響を与えたこともあった。
今でも読み続けられている小説の作家なども、たいていは、半分人生を降りた人たちである。
彼らは、世間の目からは不幸な人生に見えても、自分では納得できる生き方を選んだのであろう。

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