2011年8月30日火曜日

永井荷風 濹東綺譚


1947 岩波文庫

1879~1959

永井荷風は、東京の町をよく歩いた。
東京の下町は誰が歩いていても不思議に思われず、ところどころに小さな社があったり、ぶらぶら歩くのにはもってこいである。
山の手のインテリである荷風も、ひとり孤独に浸るため、好んで誰にも気づかれない下町を歩いた。
荷風の散歩は、市電やバスなどを乗り継ぎ、かなり遠くまで足を伸ばしていた。
そのさい、巡査に見とがめられるのに備えて戸籍謄本と印鑑を携帯し、雨が降ってきたときのために傘も持ち歩いた。
「濹東綺譚」は、荷風のこのような習慣から生まれた作品で、主人公の大江匡は荷風を思わせる。

六月末のある夕方、浅草からたまたま来たバスに乗って、東武鉄道玉の井停車場付近を歩いていた「わたくし」は、突然の夕立に出会い、さっそく持っていた傘をひらいた。
そこへ、いきなりうしろから、「だんな、そこまで入れてってよ。」と傘の下に真っ白な首を突っ込んできた浴衣姿の女があった。女は自分の家へ主人公を連れて行き、二人は雨があがるまでのひとときを過ごすのである。この女は、玉の井の娼婦で雪子といい、年は二十四五、鼻筋の通った丸顔で、黒目がちの、なんでこんな可愛い子がこんなところにというほどの容貌である。
こうして、主人公の足が向く先は自ずと決まってしまうのだったが、夏の季節が過ぎるのは早く、お雪さんに「ねえ、あなた、おかみさんにしてくれない。」と言われて、老作家はどきまぎしてしまう。
秋風がたって彼岸のころになると、自分のような老人が若い女の将来にかかわるべきではないと、老作家はそっと身を引くのである。
こんな話が実際にあったのかはともかく、作家の遠い昔への郷愁と生の歓びとが控え目な筆遣いで描かれていて、朝日新聞に連載され好評を博した。作家が描いたのは現実の町だが、読者が読むのは、すでに夢の世界での話になっている。

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