2011年8月23日火曜日

司馬遼太郎 街道をゆく 甲州街道


1971

1590年、徳川家康が江戸にやって来た時には、江戸城にはみすぼらしい館が建っていただけだったことを思うと感慨深い。
それ以前から、八王子には北条氏の城があったが、豊臣秀吉の小田原征伐のとき、はげしい戦いのすえ陥落させられた。
生き残った武士と武田の旧家臣の一部は、家康によって召抱えられ、のちに「八王子千人同心」と呼ばれるようになった。
多摩地方は、その後、幕府の直轄領として保護されたので、明治以降も徳川びいきの人たちが多かった。
ある年寄りなどは、三菱電機の製品は買わないと言う。なぜ買わないかというと、三菱は岩崎弥太郎で、岩崎は薩長土肥のうちの土佐の出身だからであると言う。それほど、徳川が好きで、薩長土肥が嫌いだということらしい。
幕末に活躍した新選組の近藤勇も多摩の出身である。
徳川慶喜は、鳥羽伏見の戦いで敗れ、江戸に逃げ帰ってから、あとは勝海舟に任せて、自らは蟄居してしまった。
勝海舟は、西郷隆盛との話し合いで、徳川慶喜の助命と江戸の無血開城に漕ぎつけた。
勝は、そのさい、江戸に新選組のような武力集団がいるとトラブルになると考え、近藤勇に地位と金と武器を与え、甲府を守る役割を与えた。そして、甲府を守ることができれば、甲州百万石の大名になれるかもしれないと思わせた。
近藤勇は新選組を「甲陽鎮撫隊」に組織替えし、江戸を発ってから、行く先々で酒宴を設け、故郷に錦を飾ったのである。
しかし、小仏峠を越えたころには、板垣退助の率いる官軍はすでに甲府を占領していて、勝沼で戦ったが敗退した。
江戸へ逃げてきた近藤に、勝は、流山で再起をはかるよううながした。
けっきょく、近藤は流山で官軍に捕らえられ、板橋で処刑された。
今から見ると、近藤勇が本当に大名になれるかもしれないと考えたとすれば、滑稽とも哀れとも思えてくる。
だが、いずれにせよ人間は失敗をするものである。後世の我々は、近藤勇をわらうことはできないであろう。

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