2011年6月23日木曜日

辻井喬 西行桜

2000 岩波書店

1927年生まれ

辻井喬は小説家のとしてのぺンネームで、本名は堤清二。
堤康二郎の子で、学生時代には親に対する反発から共産党に入党したこともある。
バブル時代には、西武百貨店、西友、パルコ、良品計画、西洋環境開発などのセゾングループを率いて、一世を風靡した。
バブルが崩壊すると、金融機関からの多額の借り入れに依存して事業を拡大していたセゾングループの経営は行き詰まり、1991年には、セゾングループの代表を辞任した。さらに、2000年には、セゾングループは解体された。

能は、文字通り「能面のようだ」と言われる仮面の下に、人間が本来持つ「情念のマグマ」、または仏教風に言えば、「煩悩」に悩まされる様をドラマにしたものである。
情念というのは、愛、憎しみ、嫉妬、恨みなどであるが、人間は、表層の下に、「情念のマグマ」を抱えており、それが吹き出さないように大変な苦労をしている。能においては、「情念のマグマ」は、鬼や怨霊となって現れ、災いを引き起こすのであるが、僧侶などの加持祈祷によって鎮められたりする。
能は、しばしば、源氏物語、平家物語や和歌などの古典に材料を求めている。

著者は、能を題材にして、竹生島、野宮、道盛、西行桜という現代風の小説を書いた。
そこで、登場人物は、たとえば没落した華族、会社から追われた経営者、嫉妬で恋敵を呪い殺す女などになり、能のドラマに重ね合わせて、幻想的な雰囲気を漂わせることになる。しかし、そうすると、現代風というよりは、いくぶん時代がかった雰囲気の、登場人物に現実感のない作品にならざるを得なかったようである。というより、能の登場人物自体が人間ではない存在とされているので、それは必然的でもある。もっとも、私は、小説中の人物を通して著者の言葉が語られているとすれば、著者のそれは、庶民のそれとはいくぶん違うのかもしれないなどとへたな考えをめぐらせたものである。

本書は、謡曲のパロディなので、六條御息所は六條泰枝として、夕顔は悠子として登場してくる。
能や古典を知らなくても、読めるけれども、それらの古典を少し知っていると、よりいっそう面白くなる気がする。

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