2011年4月4日月曜日

河谷史夫 記者風伝

2009 朝日新聞出版

1945年生まれ

「新聞記者のなりそこないが小説家になり、小説家のなりそこないが新聞記者になるという説がある。」(p51)
「新聞記者には、『堀り屋』と『書き屋』がある。取材対象に迫り、一体になってまでも材料を取ってくるのがいなければどだい話にならないが、これはたいてい文章を不得手とする。記事表現をするためには『書き屋』がいなければならない。」(p104)
「書かない大記者」というのがいて、「書かない」という約束を守ってくれるという信用があったので、政治家がいろいろなことを打ち明けてくれるので、いよいよ書けなくなったということである。

新聞記者は、どのような人がなるかというと、たいていは、頭がよく文章がうまい人が新聞社に入り、「新聞記者」になるのであって、はじめから「新聞記者」がいるわけではない。
記者が新聞社の花形であるのは、大学における教授、病院における医師のようなものではないだろうか。
文章がうまいので、井上靖や司馬遼太郎のように、小説家などになって大成した人もいる。
著者は、「戦後のある時期、新聞が輝き、新聞記者が輝いていた時代がたしかにあったのだ」と言う。
戦時中は、抑圧され統制されて、一億一心とか、玉砕とか、醜敵撃滅とかの言葉を使って文章を書き綴り、読者に訴えて来たが、戦後は自由にものが言えるようになった。
言いたくても言えなかったのだとばかり、一度にはきだした。
しかし、新聞記者の多くは、戦時中の記事に責任を取ることはなく、手のひらをかえしたので、批判の声があったのは当然であろう。

「所詮、新聞記者といふやつは筆先の技巧一つで黒を白とさへいひくるめるペンの職人でしかないといふ印象を与へはしないだろうか」と書く新聞人もあった。
この点では、今も、あまり変わりはなさそうである。
新聞記者は、新聞社という大組織のなかで、個人としての責任は負うことなく、新聞が売れるような記事、言いかえれば、読者が喜びそうな記事を書いてきたという面はあるだろう。

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