2011年12月29日木曜日

竹内一郎 ツキの波

2010 株式会社新潮社

1956年生まれ

麻雀小説で一時代を画したのが、阿佐田哲也という作家である。
阿佐田哲也という名前は、「朝だ、徹夜」をモジったものだと言われている。
それほどマージャンやギャンブルに熱中しながら、色川武大というペンネームで小説を書き、しかも数々の賞を受賞したのだから大したものだが、60歳で亡くなった。
阿佐田哲也は、ツキについて深く考えたが、彼によると人間の運の総量は一定である。
だから、良いことばかりが続くと次に悪いことがかならず起こるから注意したほうがいい。
理論的な裏付けがある話ではないが、勝ちに乗じて奢り高ぶっていると、油断して失敗すると考えれば、道理がある。
阿佐田哲也は、ギャンブルを人生感にまで高めていったということができる。
ツキやギャンブルについては、「徒然草」にも記述があり、兼好法師も、あんがい博打に興味があったらしい。
山本五十六も賭ごと、勝負ごとが好きで、しかも、強かったという。
政治とか経営にかかわっていると、しばしば重大な決断をしなければならない。
このときの心理は、賭ごとをするときの心理と似ているので、普段から賭ごとで勘を養っておくのかもしれない。
現代の経営者のなかでも、ユニクロの柳井社長などは、どことなく勝負師の風貌がある。
売れるか売れないかやってみなければわからないという綱渡りを繰り返してきたためだろうか。
もっとも、徒然草には、「『ばくちの、負極まりて、残りなく打ち入れんとせんにあひては、打つべからず。立ち返り、続けて勝つべき時の至れると知るべし。その時を知るを、よきばくちといふなり』と或者申しき。」(第126段)とある。
阿佐田哲也流に言えば、そう長くはツキは続かず、ツかないときの方がずっと多い。
「ギャンブル依存症」という言葉があり、大王製紙の御曹司が子会社から150億円を賭博のために引き出したり、パチンコに夢中になって幼児を車のなかに放置したりする事件があるたびに話題になっている。
徒然草でも、「『囲碁・双六好みて明かし暮らす人は、四重・五逆にもまされる悪事とぞ思ふ』と或ひじりの申しし事、耳に止まりて、いみじく覚え侍り。」(第111段)という。

2011年12月13日火曜日

日高義樹 アメリカの日本潰しが始まった

2010 株式会社徳間書店

1935年生まれ

アメリカは強大な軍事力と巨大な経済力を使って世界中を突っ走っている。日本に与える影響力も絶大である。
しかし、今のところ運転手は乗っていない。ただ、運転手の制服を着ているのが、オバマ大統領である。
オバマ大統領は、なぜ、当選したのか。
それは、民主党を動かしている大企業や巨大労働組合が、なんとしても政権を取ろうとして、共和党のブッシュ大統領にあきあきした国民にたいし毛色の変わった政治家をおしだして利用しようとしたからである。
オバマ大統領は、「チェンジ」という言葉を叫ぶだけで、何をどう変えようなどという思想も構想もない。
大統領の周りも、政策とは関わりのない、ただ政治的な野心にあふれている人物ばかりで、世界やアメリカのことを考えるより、自分たちの利害だけを考えている。
こういう人たちによって動かされているオバマ大統領は、景気を回復させることも、雇用をつくりだすこともできない。
大企業や大銀行につぎこんだ莫大な資金は、大企業の利益にはなったが、景気を良くしたり、雇用を作ったりするのではなく、中国の景気を良くしただけであった。
そもそも、アメリカはヨーロッパから逃げてきたり追い出された人々が作った国で、世界のリーダーになろうというつもりもなかった。
それが、メキシコから領土を奪い取り、その後、太平洋に進出して、ついには日本を押しつぶした。
ライバルのソビエトが崩壊すると、アメリカは世界の指導者となった。
アメリカは世界のリーダーとなったが、そのアメリカには、アメリカを動かす指導者は存在していない。
日本について言えば、日本人は日米安全保障条約があるから、アメリカは日本を守ってくれると思っているが、日米安全保障条約が締結された当時とは、状況が変わっている。
今や、日本は経済大国となり、アメリカを脅かすまでになっている。
アメリカが日本にたいする友好的な態度をかなぐり捨て、日本を敵とみなす政策を実行しないとは言い切れなくなっている。

2011年12月11日日曜日

白井さゆり ユーロ・リスク

2011 日本経済新聞出版社

1963年生まれ

2010年末現在、ヨーロッパにはおよそ50の国があり、そのうちの27の国が欧州連合(EU)に加盟しており、さらにそのうちの17の国が域内共通通貨「ユーロ」を採用している。
「ユーロ・リスク」とは、「ユーロ」を採用している国々の経済安定にかかわるリスクという意味と、共通通貨「ユーロ」それ自体の信認についてのリスクという二つの意味がある。
最近世界を騒がせている「欧州財政危機」とは、おもに前者のような域内経済問題を指しているが、「ユーロ」それ自体の為替相場も2002年以来おおきく変動している。

ユーロ圏に参加する諸国を三つのグループに分けると理解しやすい。
ドイツやフランスなどの低リスクのグループ、イタリアやベルギーのような中リスクのグループ、ギリシアやポルトガルのような高リスクのグループである。
ギリシアが債務不履行に陥るのではないかという懸念が最近の欧州財政危機の発端である。
仮にギリシアが債務不履行になると、ギリシア国債を保有している銀行は損失をこうむり、金融危機を引き起こすおそれがある。
そうならないためには、ドイツなどの経済的に強い国が弱い国を財政で支援するか、弱い国に財政規律の強化をもとめなけらばならない。
ここで、ドイツがギリシアを助けようとすれば、ドイツ国民が反発し、ギリシアに財政規律の強化をもとめようとすれば、ギリシア国民に大きな負担がかかる。
国民の声を無視するわけにはいかないので、話し合いは容易ではない。
そうしているうちにも国債の格付けは下げられ、市場は混乱する。
最悪のケースでは、「ユーロ」が分裂するのではないかという不安も消えていない。

ところで、ドイツは日本以上の輸出大国である。ドイツが輸出大国でいられるのも、「ユーロ」あってのことである。
もし、ドイツが以前のようにマルクを使っていたとすれば、輸出が増えるとマルク高になり、日本が円高に苦しむように、ドイツもそうは輸出をのばすことはできないはずである。
「ユーロ」を使っているので、域内はもとより、域外においても有利な条件で輸出ができるのである。
いっぽう、ギリシアのような国が「ユーロ」から離脱すれば、ギリシアの通貨価値は暴落して、債務が返済できないだけでなく、国民は急激なインフレに苦しまなければならない。
したがって、ドイツにとってもギリシアにとっても「ユーロ」を維持することには利益がある。
ただ、話し合いによる合意には、関係する国が多いので、時間がかかる。
「ユーロ」がドルに匹敵するような国際通貨となるには、ユーロ圏の諸国が克服しなければならない課題はきわめて多い。

2011年12月5日月曜日

ドナルド・キーン 日本人の戦争

作家の日記を読む

2009 株式会社文芸春秋  角地幸男 訳

1922年生まれ

戦争中は、警察や憲兵の目が怖かったこともあるが、ほどんどの作家は、むしろ自分から進んで戦争に協力した。作家の多くは、戦争初期の勝利に熱狂し、戦争末期の日本の窮状に絶望した。
敗戦後、アメリカ軍に占領されてからの日本人の変わり身の早さは、作家といえども同じであったらしい。
昭和21年に専売局が新しい煙草の図案と名称を募集し、一等に当選したのが、「ピース」であった。
これについて、高見順(1907~1965)は、つぎのように書いた。

「戦争中英語全廃で、私たちに馴染の深かった『バット』や『チェリー』が姿を消しましたが、今度はまた英語国に負けたので英語の名が復活。日本名だってよさそうなものに、極端から極端へ。日本の浅薄さがこんなところにも窺えるというものです。『コロナ』はまあいいとして、『ピース』(平和)なんて、ちょっと浅間しいじゃありませんか。滑稽小説ものですね。好戦国が戦争に負けるとたちまち、平和、平和!」(「高見順日記」)

敗戦後の日本人の豹変ぶりに、日本人自身があきれているのである。
なぜ、こういうことになるのか考えてみると、日本人に限らないのかもしれないが、人は、へたに自分の頭で考えたりせず、流れに乗って、あるいは、空気に動かされて行動しているからである。
たとえ風にそよぐ葦のようだとけなされても、それがもっとも安全なやり方だと思っている。
流れや空気を、いち早く察して、それに自分を合わせようとする。
だから、皆が同じような行動をとることになる。それが、良いとか悪いとかというより、ともかく、人の動きというのはそういうものらしい。
ちいさな魚や弱い動物が群れをつくってあっちへ行ったり、こっちへ行ったりするようなものなのだろう。

2011年12月2日金曜日

外山滋比古 自分の頭で考える

2009 中央公論新社

1923年生まれ

謙虚さということ

「病人を見舞う人間は、どこかで優越感をいだいているようです。自分はありがたいことに健康であるのを、病人の存在によって実感させられるのです。そう考えるだけでも不遜で、病人に対して申し訳ないようなものです。まして、のこのこ出かけていって、優越感を満喫するのは、人の道から外れているといってもよろしい。
その後ろめたさを糊塗するために、品ものを持参するのかもしれません。
優越感を抑えることは困難です。優越感を病人にぶつけるのは、いかにも心ないことのように思われる、という理由で病気見舞をしません。それを慎みの心だと勝手に考えます。」(p150)

病気で入院している人は、孤独で心細いはずである。そのとき人が来て、「早く良くなって」と励ましてくれれば、どんなにか元気がでることであろう。そのいっぽう、空々しい言葉で優越感をむきだしにされたのでは、見舞い客が来たためにかえって疲れがどっとくることだろう。
病気の種類や程度、病人との日ごろからの関係によるのだろうが、私のようにぶっきらぼうな人間にとっては、著者のように見舞いに行かないで、陰ながら快癒を祈るほうが無難かもしれない。
ようするに、時と場合によるのであろう。

2011年11月29日火曜日

田原総一朗 Twitterの神々

2010 株式会社講談社

1934年生まれ

「新聞・テレビの時代は終わった」として、楽天の三木谷氏などと対談している。
私は、Twitterなどの情報が、どの程度のものかはわからない。
だが、新聞やテレビだけ読んだり見たりしているのだけでは、新聞やテレビの経営が苦しくなっているなどとは決して思わないであろう。
新聞が、以前ほど売れなくなっているのは、代替的に情報を得る他の手段が登場しているからである。
その主なものは、インターネットによる情報である。
そう言われて、あらためて見回してみると、以前なら、電車の中で新聞を読んでいる人はかなり多かった。それが、今では、携帯電話を操作している人ばかりが目立つようになった。
駅で売っている新聞は、かなり販売部数を減らしているという。
新聞社のほうでも、当然、こうした事態に対処するため、ネットによる新聞の配信の有料化を始めている。
ネットによる新聞の配信は、コストからみると、紙によるそれよりも、はるかに低い。
それにもかかわらず、ネット配信の料金は紙にくらべてそれほど安くなっていない。
これは、新聞社が販売店に遠慮して、安くできないのがひとつの原因らしい。
家庭に配達する販売店は、たいへんな努力をして、新聞の購読者を維持してきたのである。
新聞は、こうした販売店ルートに乗って配達してきたので、ネットで配信すればコストが安いといっても、料金を極端に下げると紙からネットへの移行がすすみ販売店の経営を圧迫するので、それはできないのである。
これも、「既得権」に縛られて身動きがとれないという日本社会の縮図なのだろうか。

2011年11月22日火曜日

森見登美彦 太陽の塔

2003 株式会社新潮社

1979年生まれ

この小説の主人公は、恋愛に不器用な理系大学院生である。
異性にあこがれるが、近づくことはできず、現実の女性とつきあうこともできない若者の話は、夏目漱石の「三四郎」にさかのぼる。
昔は「バンカラ」とか「硬派」などと言ったが、今は「おたく」とか「草食系」とか言うのだろうか。
この本で「法界悋気」という言葉を知った。自分に関係のない他人の恋をねたむことだそうである。
それも「バンカラ」学生の特徴で、男同士で、足の引っ張りあいをしている面がある。

「太陽の塔」というのは、大阪万博のとき、岡本太郎がつくったシンボルタワーである。
しかし、主人公が幼いころには、そんなことは知らず、なんだかわからないが、とてつもなくでかく、不気味なものがそこにあるという印象が深くなっている。主人公は、万博公園を愛し、太陽の塔を畏怖している。
主人公に彼女ができて、太陽の塔を見せたところ、やはり、驚いて、えらく気に入ったようである。

小説のすじから離れるが、太陽の塔は、取り壊される予定になっていたが、署名運動などがあって、保存されることになったという。
大阪万博は、1970年に開催された。すでに40年も前のことで、作家の生まれる以前のことである。メイン・テーマは、「人類の進歩と調和」であった。
そのころは、今のようにパソコンやインターネットが発達して世界中の人と瞬時につながることができるとは夢にも考えられなかった。
今では、当時と比べて、非常に便利な社会になったのだが、世界のなかで日本の優位性はなくなり、雇用も減ってしまった。
大学院生が、コンビニや宅配寿司のアルバイトで食いつなぐというのも、あまり考えられなかったことだったような気がする。

2011年11月20日日曜日

2011年11月18日金曜日

赤坂治績 江戸っ子と助六

2006 株式会社新潮社

1944年生まれ

演劇評論家

助六は、歌舞伎の助六劇のヒーローである。
江戸で市川団十郎が演じた助六劇は、「助六由縁江戸桜」という名題で演じられた。
助六、実は曽我五郎は、侠客に身をやつして吉原に通い、親の敵を探している。いっぽうヒロインは、吉原の花魁、揚巻である。
助六という芝居を江戸の庶民が愛した理由は、助六のなかに「江戸っ子」の理想像を見出したからであろう。
江戸という町は、徳川家康がつくったので、それ以前からの住人というのはほどんどいなかった。
それでは、どういう人が移り住んだのかというと、武士のほかには、農民は土地に縛り付けられていたのでおらず、職人や商人である。
それ以外にも多かったのが、士農工商という身分制度の制外の者であった。
あらゆる地方から、それこそ、木の葉が風に吹き寄せられるように集まってきたのであろう。
将軍様のお膝もとで生まれ育った「江戸っ子」は、古くからの上方文化に対するコンプレックスをもつと同時に、プライドが高かった。
「江戸っ子」には、見栄っ張りだとか、口が悪いとか、喧嘩っ早いとかいう気質があり、ようするにガラが悪いのだが、これを自慢にした。新興都市に人が集まって、活気とエネルギーがあり、新しい文化を作っていったのが、江戸の文化の特徴である。
助六というキャラクターがいかに庶民の間で人気があったかは、現代でも、「助六ずし」という名前が残っているのでもわかる。
「助六ずし」は、巻きずしと稲荷ずし(揚げずし)が入っていて、揚げと巻きを助六の恋人である揚巻に、ひっかけて名付けられたのものらしい。
稲荷ずしは、油あげのなかにごはんを詰めたものだが、これを稲荷ずしというのは、稲荷にゆかりのある狐の好物が油であるという言い伝えからきたものである。また、別名を「しのだずし」というのは、これも歌舞伎などで演じられている信太の森の狐の話からきたものだという。信太の森の狐は「葛の葉」といい、人に化けて安倍保名と結婚し子供をもうけたが、その子供が安倍晴明である。狐が、正体が知れて森に帰って行ったとき読んだのが、「恋しくば尋ね来て見よ和泉なる信太の森のうらみ葛の葉」という歌である。
いまでは歌舞伎は、一部の人が鑑賞するだけであるが、江戸の庶民にとっては、身近な現代劇であった。

2011年11月17日木曜日

火坂雅志 謙信びいき

2009 PHP研究所

1956年生まれ

新潟県生まれの歴史小説家

著者は、歴史の表舞台に立つことはなくても、自分にしかできない仕事をしっかりと残した人物に興味をおぼえるという。
たとえば、越後の上杉謙信は、戦国乱世のなかで、独特の「義」の思想をかかげ、「弱きをたすけ、強きをくじく」という姿勢を生涯にわたって崩さなかった。彼のかかげた義や仁の心が直江兼続や真田幸村らに影響を与えたそうである。
歴史の表舞台にたった人物ばかりではなく、あまり知られていない多くの人が歴史をつくってきたことは事実である。
著者が好きなのは、「忍びの者」などの、社会からはみ出た者たちで、彼らは、人に知られることがなく、まさに神出鬼没、あらゆるところで活躍したとされている。
荒唐無稽な物語にいかにリアリティを与えることができるかは、伝奇小説家の腕の見せ所である。
知れば知るほど、人は「善」と「悪」のないまぜであり、善人といわれる者のなかに「悪」があり、悪人といわれる者のなかにも「善」を見つけることができる。歴史小説家の仕事には、そういうことを書くことも含まれるという。
それにしても、人に知られることのないはずの「忍者」のことがなぜわかるのか不思議である。
歴史書や過去の物語に加えて作家の想像力が作り上げるのであろうか。ただ、感心するしかない。

冬の越後は、雪に閉ざされ、暗鬱な鉛色の空と白く塗り込められた大地は、人の心に深い陰影を刻み込む。
しかし、雪は負の面ばかりではない。冬がおわり、春がおとずれると、山から清冽な水が流れだし、広大な水田を満々と潤す。
越後が日本でも有数の米の産地であり、銘酒のふるさとであるのは、すべて雪の恩恵である。
日本海の海の幸とともに、米の産地である越後は、日本が工業化する以前は、経済的にも先進地域であったという。
川端康成は、「国境の長いトンネルを越えると雪国であった」と書いた。
山ひとつ越えるだけで、別の世界があるのも、日本の気候風土のおもしろいところである。

2011年11月4日金曜日

谷津バラ園

谷津バラ園(習志野市)

2011年10月30日日曜日

武甲山登山

10月29日、友人と秩父の武甲山へ登りました


2011年10月28日金曜日

加藤秀俊 隠居学

2005 株式会社講談社

1930年生まれ

落語に登場する「ご隠居さん」は、ちょっと物知りだが、熊さんと珍問愚答をくりかえす滑稽な存在である。
いろいろなことを知っているけれども、別に体系だっているわけでもない。
しかし、そういう知識でもじょうずにつなげていくとひとつの話になる。
知的作業と呼ばれているものもだいたいそんなものである。

年寄り同士が集まると、話題は、病気や健康状態のことになる。
それも、考えてみれば、長生きするようになったからで、昔は、そんな長生きする人ばかりではなかった。
とにかく、からだの不調はかならずどこかにあるというのが人間である。
そこで頼るのが、医者とクスリであるが「薬九層倍」というように、昔から薬の値段は原価にくらべて非常に高い。
クスリで思い出すのが富山の置き薬売りである。規制が厳しくなり高齢化も進んでいるが、今でも一部は健在である。
縁日や祭礼など人が集まるところで露天の店をだしてモノを売るのが香具師と書いて、「ヤシ」と読む。
今では禁止されているが、昔は、筑波山麓ガマの膏(あぶら)売りのようにクスリも売っていたのである。
クスリで儲けた話は多く、資生堂とかダイエーが大きくなったのも、クスリを売ったからだという。
最近の高額所得者も、クスリや健康関連業種が上位を占めているそうである。

2011年10月26日水曜日

安田登 異界を旅する能

2011 株式会社筑摩書房

1956年生まれ

著者は能楽師である。
能という芸能は、今からおよそ650年ほど前に観阿弥、世阿弥父子によって大成され、今に受け継がれている。
能の舞台は、主人公であるシテ、脇役のワキ、楽器を演奏する囃子方、謡を受け持つ地謡などで構成されている。
このうち、もっとっも目立って活躍するのは、シテである。ワキは、「諸国一見の僧」や「一所不住の僧」であることが多く、初めのころシテの演技を引き出したら、あとは、舞台の隅で、ただ座っていることが多い。
一般に、能や歌舞伎のような伝統芸能では、このような役割が、代々引き継がれてきたらしい。
著者は、文字通り、ワキ役に徹していて、けっして主役にはならない。
しかし、「ワキ」という役は、単なる脇役とは違い、重要な役割を持っているという。
そもそも、ワキがいなければ、シテが現れてくることができない。
ワキは目立たないが無視できない力を持っている。
ふつうの人には見えない異界の存在であるシテを呼び出し、出会うことができるのはワキだけである。
このように、能という芸能は、いろいろな役割をもった人がそれぞれの役割を演じることによって成り立っている。

話は変わるが、会社などの組織も同じことで、各自がそれぞれの役割をしっかり果たすことで会社という組織がうまく機能する。
会社は、皆を出世させることはできない。そこで、地位の上下は、単なる役割の違いにすぎず、立場はみな同じであるという考え方がでてくる。
長年勤務した人は、表彰し、定年まで勤めた人には、長いあいだ会社の為に働いていただきありがとうございましたとねぎらいの言葉をかける。このようにして、たとえ出世しなくても、自分が働いた会社を愛し、自慢する人ができるのである。
かっては、こうしたことが、日本の企業の慣行だったこともあるが、いまは、どうなのであろうか。

2011年10月11日火曜日

小沢昭一 せまい路地裏も淡き夢の町

2003 株式会社晶文社

1929~

著者が幼い頃育った蒲田という町は、当時は、場末の新開地で下町でもなかった。
もともと下町とは、城の下の町という意味で、神田、日本橋、京橋などを言うそうである。
いまでは、「下町」の範囲は、ずっと広くなっている。
蒲田が東京市に編入されて蒲田区になったのは、昭和7年で、戦後、大森区と合併して大田区となった。
そんな蒲田であるが、映画の撮影所があって、新興地の活気があり、自然も残っているというけっこう面白いところであった。
蒲田には、著者が幼いころ、父親が女塚神社のそばで写真屋を開いていた。
伝えられるところによると、新田義貞の子、義興が、足利勢に謀殺されたとき、その寵愛していた侍女も殺された。
そのとき村人があわれんでその女を葬ったのが女塚神社の由来だという。
江戸時代には、蒲田は文字通り田んぼであった。羽田は漁師町だったが、干潟が埋め立てられて、鈴木新田と呼ばれていた。
その堤防が暴風雨のため決壊して大穴があき、海水が侵入するという被害があったので、堤防に稲荷を祀って祈願したところ、五穀豊穣が続いた。そこで、その稲荷は、穴の害から田畑を守ったので、穴守稲荷と呼ばれるようになったという。
穴守稲荷は明治になってから一躍観光地として脚光をあび、京浜電鉄が伸びてきて東京名所の一つになった。
もとは、羽田空港のある場所に位置していたが、戦後強制退去させられ、現在の場所に移った。
そのさい、大鳥居だけは、工事関係者が祟りを怖れて、ながいあいだ移転できなかったことは有名である。

著者は、軍国主義のただなかで育ち、子供のころは、軍国少年であった。
麻布中学から海軍兵学校の予科へとすすみ、戦争が終わったとき、16歳であった。
戦争中は、「武士道とは死ぬことと見つけたり」とか「君がため何か惜しまん若桜、散って甲斐ある命なりせば」とかたたきこまれていた。
ようするに、桜のようにいさぎよくはやく死ねと言われていたのである。
戦争が終わると、それまでの憑き物が落ちたように、人々は命の大切さを強調するようになった。
著者にとっても、その時、生き延びることができたことが、その後の人生の原点になっている。

2011年10月8日土曜日

永井荷風 断腸亭日乗(摘碌)

1987 岩波文庫

永井荷風が好きだと言う人と嫌いだと言う人は、どちらも多いのではないだろうか。
永井荷風は、山の手の裕福な家庭に生まれ、若い頃に結婚したことはあるが、すぐに離婚した。
親に財産があったので、芸者や娼婦と遊んで暮らし、生涯独身で世の中に背を向けて過ごした。
そういうイメージがあるためか、荷風が嫌いな人は、不道徳だと言って批判する。
逆に、荷風を好きな人は、自由で都会的な生き方に共感をおぼえる。

荷風が不道徳だったと言われれば、そういう面もあるのではないだろうか。
荷風は、「断腸亭日乗」という膨大な日記を残したが、一部を読むと、そんな気がする箇所もある。

1923年(大正12年)9月1日

正午になろうとするとき、関東大震災が東京を襲った。
荷風は本を読んでいたが、書架の本が落ちてくるのに驚き、庭に出た。
何度も大地が震動し、まるで船の上に立っているかのようであった。
門につかまって我が家を見ると、幸いにも屋根の瓦が少し滑った程度であった。
昼食をとろうと近所の山形ホテルに行くと、食堂の壁が落ちたので食卓を道路の上に移していた。
食後家に戻ろうとしたが、震動が止まないので家に入ることができなかった。
夕食は、ふたたびホテルでとって愛宕山に登り、市中の火事を観望した。
火は夜になって荷風の家の近くまで迫ったが、荷風の家は延焼を免れた。

1923年10月3日

愛宕山の坂上から東京市街を見渡すと、一面の焦土で遮るものが無く、房総の山々が手に取るように近くに見えた。
帝都荒廃の光景は、哀れと言うのも愚かである。
けれども、明治以来大正までの帝都を顧みれば、いわゆる山師の玄関と変わりなく、愚民を欺くいかさまに過ぎない。こんなものが灰になったところで、さして惜しむには及ばない。
近頃、世間一般の奢侈嬌慢、貪欲飽くことを知らない有様を顧みれば、この度の災禍は実に天罰と言うべきである。何で深く悲しむことがあろう。
外観のみ飾り立てて百年の計を持たないい国家の末路などこんなもので、自業自得天罰覿面とはこのことである。

関東大震災では、何万人もの人が死んだが、荷風は山の手の麻布に住んでいて、自らは、たいした被害も被らなかったので、日記には被災した人にたいする同情の気持ちを覗うことはできない。

荷風のこうした自分のことしか考えないという態度は、不道徳と言えば不道徳である。
もっとも、そこがまた荷風文学の面白さで、生きていたときは他人のことなど考えなかった小説家の文学が、死んでから他人に愛されているというわけである。

震災といえば、今年の3月に起きた東日本大震災であるが、こちらのほうも津波に襲われて多数の死者がでた。
上空からみると、田んぼの上を水が移動しているようにしか見えない光景も、その下は地獄であったのだろう。
地震が発生してから津波が襲ってくるまでにはかなりの時間があり、逃げようと思えば逃げられたのに、逃げずに命を落とした人も多かったらしい。
人は、自分が次の瞬間に死ぬこともわからないのだから、まして、他人のことなどわからないのも無理はない。
それでいいというのではなく、他人に同情するには、学習と想像力が必要なのではないかと思う。

2011年10月5日水曜日

池波正太郎 一升枡の度量

2011 有限会社幻戯書房

1923~1990

「一升枡の度量」とは、文字通り、一升の枡には、一升の米しか入らないという意味である。
例えば、日本の国土は狭く、その中に入るモノは、限られている。
それを、戦後の日本は、あたかもいくらでも入る枡であるかのように経済成長を追求したものだから、無理が来たのである。
狭い国土で、いつまでも「世界第二位の経済大国」が維持できるわけがない。
それなりの規模にまで国も縮小せざるを得ないのだろうが、できるだけ緩やかであってもらいたいと願うばかりである。

個人の度量にも、おのすから限度がある。いくらがんばっても、何でもできるというわけにはいかない。
まして、歳を取れば、能力も衰えてくるから、なおさらである。
いまさら、若い時に聞いた「少年老い易く学成り難し」などと思いだしてみたところで始まらない。

度量の大きな人物といえば、西郷隆盛の名が思い浮かぶ。彼が、最も盛んだった時には、文字通り向かうところ敵なしであった。
それが、鹿児島に帰ってから、西南戦争で敗れ、哀れな最後を遂げたのも、彼の「度量」の限界だったのであろう。
もっとも、西郷隆盛については、歴史家の評価は、高くなったり低くなったりと、大きく変わっているという。それだけ、「度量」の広い人物であったことは確かである。

池波正太郎は、たくさんの時代小説を書いたが、作中の人物に成り切ってしまうという特殊な才能があったらしい。
もちろん、完全に成り切ったわけではないのだろうが、一種の「神がかり」の状態に自分をもっていける才能があったのかもしれない。
もしそうしたことができるのなら、自分でも楽しみ、他人にもおもしろい小説が書けそうである。
若い頃、株式仲買店に勤めたことがあり、いろいろな人に接した経験から人の気持ちがわかるようになったのがプラスになっているというが、同じような経験があっても、普通の人は小説など書けるものではない。
日本には、「分相応」という言葉があり、自分の能力や身分にふさわしいことで満足するというのも生活の知恵である。

2011年9月27日火曜日

高橋典幸 源頼朝

2010 株式会社山川出版社

1970年生まれ

源頼朝は鎌倉幕府の創始者であり、生涯鎌倉を離れなかった。
しかし、それは、頼朝、東国武士、朝廷という三者に緊張関係があったからである。
源頼朝は、1147年、源義朝を父、熱田大宮司季範の娘を母として生まれ、京都で育った。
1159年、平治の乱で父義朝は平清盛に敗れ、東国をめざす途中で殺された。
頼朝は捕らえられたが、清盛の継母池禅尼の働きかけにより処刑を免れ、伊豆に流された。
長じて政子と結婚してからは、北条氏の館で暮らすようになった。
そこへ、1180年、東国の源氏に平家打倒を呼びかける以仁王の令旨がもたらされた。
頼朝は、これに応じて挙兵し、相模の三浦氏との合流をめざした。
しかし、石橋山で敗れ、海路安房へ向かい、ここで再起をはかった。
挙兵当初、頼朝に従ったのは、伊豆や相模の武士が中心であった。
再起を決定づけたのは、房総半島の大豪族上総広常と千葉常胤が帰順したことである。
石橋山の惨敗からわずか40日で鎌倉に入ったときには、頼朝の軍勢は5万に膨れ上がっていた。
頼朝挙兵の知らせを受けた朝廷は、平維盛を追討使として東国に派遣するが、富士川の合戦で、平家軍はあっけなく壊滅した。
頼朝は、逃げる維盛を追って京都に攻め上ろうとしたが、三浦義澄、千葉常胤、上総広常らに反対されて断念せざるを得なかった。
頼朝は、強いリーダーシップを発揮して、東国武士を統率したが、その資質もさることながら、以仁王の令旨を掲げたことにもうかがえるように、より上位の権威を利用しようとした。東国は、平氏系の豪族が多く、源氏の棟梁だからといって誰もがついてくるわけではない。行動するには、大義名分が必要だったからである。
頼朝は、朝廷には反逆するつもりのないことをアピールするとともに、朝廷と東国武士とが直接接触することを嫌い、御家人たちが頼朝の許可なく朝廷の官職に任じられることを禁じようとした。
頼朝は、戦場で功績をあげた御家人には、地頭職として所領を与えることによって、主従関係をより強固なものにしていった。
いっぽうでは、長女大姫を御鳥羽天皇に入内させようとしたり、朝廷との関係を深めようと画策した。
東国には実力があり独立心が強い御家人が居並んでいて、自分の武士団を持たない頼朝にとっては気が抜けなかった。
頼朝が鎌倉を離れなかったのも、東国武士にたいする警戒心を緩められなかったためかもしれない。
頼朝は、もともと京都育ちの貴族であり、鎌倉に住みながらも、心の半分は、京都にあったのであろう。
話は変わるが、こうして守護とか地頭に任じられた東国武士は、全国に散らばった。
なかでも、薩摩の島津氏は、頼朝の子孫であると称している。鎌倉にある頼朝の墓は、江戸時代に島津家が建てたものである。
また、日露戦争の英雄東郷平八郎は薩摩の出身だが、その先祖は相模の渋谷氏だという。
鎌倉時代といっても、そう古い昔ではないような気がしてくる。

2011年9月15日木曜日

司馬遼太郎 街道をゆく42 三浦半島記

1996 朝日新聞社

三浦半島は、中世以来、日本史上の重要な出来事が起きた場所である。
この地の豪族であった三浦氏は、鎌倉幕府の成立に功があった。
江戸の幕末期には、幕府によって横須賀に軍港設備がつくられ、それをひきついだ明治政府によって海軍の本拠地となった。

その昔、平安時代は、文字通り平和な時代で、死刑が行われなかったという。
そのころ、関東地方は、碓井と足柄の坂より東なので、坂東と呼ばれていた。
都の貴族にとっては、ともかく遠いところであった。中央からの支配が弱かったので、農民は独力で自分たちを守るしかなく、勇猛果敢な坂東武者が歴史に登場するようになった。
1180年、伊豆に流されていた源頼朝は石橋山で平家追討の兵をあげたが、敗れて相模湾に逃れた。そのとき、海上で三浦氏の軍勢と合流して、房総半島に上陸し、東京湾を一周して鎌倉に入ったときには、坂東各地から集まった多数の武士で、強力な軍団ができていた。それからわずか五年で、平氏は滅亡した。しかし、源氏の運命は、平氏以上に血なまぐさく、頼朝とその子の代しか続かなかった。
鎌倉幕府が安定したのは、北条執権政治の時代になってからである。鎌倉幕府によって始められた武家の政権は、それから数百年続いた。

明治時代には、横須賀に海軍鎮守府がおかれ、横須賀は海軍の町になった。海軍がもっともはなばなしい活躍をしたのは、日露戦争でロシアのバルチック艦隊を破ったときである。
海軍は陸軍と違って合理的に考える伝統があり、アメリカと戦争しても勝つみこみのないのは十分わかっていた。それでも、山本五十六は、一年か二年だったら暴れて見せますと言った。軍人だから、負けますとは言わなかったが、負けると言ったのも同然である。負けるとわかっている戦で、勇猛果敢に戦って、みごとに散ってみせるという精神は、ことによると、坂東武者のものかもしれない。千年近くの時間を経て、坂東武者のDNAが、日本人のなかに残っていたとしても不思議ではない。

2011年9月12日月曜日

南武線平間


ガス橋付近からの多摩川上流

吉田就彦 アイデアをカタチにする仕事術

2010 東洋経済新報社

1957年生まれ

世の中、停滞していると言われつづけているけれども、「ヒット」は生れている。
映画「相棒」とか、スタジオ・ジブリのアニメとか、AKB48などの音楽もそうである。
ビジネスの世界でも、毎年、ヒット商品が生まれている。
これらのヒットを生み出すためには、宮崎駿のような「クリエイター」が、無から有を生み出しているだけではない。
「プロデューサー」と呼ばれる職業の人が、それをさらに育て、大きくしている。
さまざまなメディアを使ってヒットを生み出そうとしているのが、「コンテンツ・プロデューサー」だとすれば、会社の経営にかかわるのが、「ビジネス・プロデューサー」である。
著者によると、優れたプロデューサーには、次のような多様な能力が求められる。
1.ヒットの芽や人財を見つける「発見力」
2.世の中の動きや物事の本質がわかる「理解力」
3.ビジョンを描きゴールをイメージできる「目標力」
4.さまざまな資源を活用できる「組織力」
5.人や組織を励まし、力を発揮させる「働きかけ力」
6.トラブルや環境変化に対応できる「柔軟力」
7.実行し、達成して、次への蓄財とする「完結力」
「ヒット・プロデューサー」という達人になるためには、これらの能力を鍛え高めることが必要である。
自然発生的に「ヒット」が生まれることもないわけではないが、多くの「ヒット」は、「プロデューサー」がさまざまな資源を組み合わせてつくりだしている。
たとえば、テレビドラマでは、視聴者の目を引くのは俳優であるが、その裏では、キャラクターをつくったり、筋書きを考えたり、さまざまな役割の人がいて、さらに全体を差配しているのが「プロデューサー」になるらしい。
ただ、私にはあまり聞きなれない「コンテンツ業界」や「プロデューサー」という言葉には、まだピンとこないものがあった。

2011年9月2日金曜日

滝の川(神奈川区)


川辺の居酒屋





2011年9月1日木曜日

上横手雅敬 源平の盛衰

1997 株式会社講談社

源氏と平氏のことを「平家物語」から学ぶ人は多いのではないだろうか。
「徒然草」によれば、「平家物語」は、信濃前司行長という下級貴族が出家して比叡山に入り、生仏という盲目の法師に教えて語らせたものである。
盲目の法師が琵琶をベンベンと弾きながら語ったもので、説教、歴史、文学、芸能が入り混じっているのである。
そうなると、どうしても、おもしろおかしく聞こえるように工夫するのが当然であろう。
そこで、「平家物語」では、善玉と悪玉とがはっきりしており、平氏は悪玉扱いにされている。
奢れる平家は久しからずというわけで、平清盛は、いかにも悪者であるかのように書かれている。
しかし、平清盛が娘を高倉天皇の皇后とし、安徳天皇の祖父になるまでには、その前半生で、いかに才覚を発揮したのかは書かれていない。平清盛も、スケールの大きな人間的魅力に富んだ人物であったのかもしれない。
また、合戦の模様も、まるで絵巻物を見るように優雅にさえ感じさせるが、じっさいの戦というのは、ずっと殺伐としたものであったに違いない。こうした点でも、日本人の歴史観や戦争観に影響を与えてきたのであろう。
「平家物語」は、文学作品としてすぐれているために、かえって歴史の一面しか見えなくさせてしまうという可能性がある。
歴史上の出来事は、一度しか起こらない真実があるにしても、あとになって残されたものから解釈したり、類推したりするものだから、歴史の意味それ自体は変わっていく。

源平の陰に隠れているが、奥州藤原氏の栄華は特筆すべきである。当時、東北では、豊富に金を産出し、その富を背景にして、藤原氏は一大仏教王国を築きあげていた。このころ、日宋貿易が始まっていたので、海外にまで「黄金の島」日本の噂が広まった。
藤原氏を滅ぼして東北を征服した源頼朝は、平泉の仏教文化の壮大さに影響を受け、鎌倉を京都にならって整備し、大寺院を建設したという。

2011年8月30日火曜日

永井荷風 濹東綺譚


1947 岩波文庫

1879~1959

永井荷風は、東京の町をよく歩いた。
東京の下町は誰が歩いていても不思議に思われず、ところどころに小さな社があったり、ぶらぶら歩くのにはもってこいである。
山の手のインテリである荷風も、ひとり孤独に浸るため、好んで誰にも気づかれない下町を歩いた。
荷風の散歩は、市電やバスなどを乗り継ぎ、かなり遠くまで足を伸ばしていた。
そのさい、巡査に見とがめられるのに備えて戸籍謄本と印鑑を携帯し、雨が降ってきたときのために傘も持ち歩いた。
「濹東綺譚」は、荷風のこのような習慣から生まれた作品で、主人公の大江匡は荷風を思わせる。

六月末のある夕方、浅草からたまたま来たバスに乗って、東武鉄道玉の井停車場付近を歩いていた「わたくし」は、突然の夕立に出会い、さっそく持っていた傘をひらいた。
そこへ、いきなりうしろから、「だんな、そこまで入れてってよ。」と傘の下に真っ白な首を突っ込んできた浴衣姿の女があった。女は自分の家へ主人公を連れて行き、二人は雨があがるまでのひとときを過ごすのである。この女は、玉の井の娼婦で雪子といい、年は二十四五、鼻筋の通った丸顔で、黒目がちの、なんでこんな可愛い子がこんなところにというほどの容貌である。
こうして、主人公の足が向く先は自ずと決まってしまうのだったが、夏の季節が過ぎるのは早く、お雪さんに「ねえ、あなた、おかみさんにしてくれない。」と言われて、老作家はどきまぎしてしまう。
秋風がたって彼岸のころになると、自分のような老人が若い女の将来にかかわるべきではないと、老作家はそっと身を引くのである。
こんな話が実際にあったのかはともかく、作家の遠い昔への郷愁と生の歓びとが控え目な筆遣いで描かれていて、朝日新聞に連載され好評を博した。作家が描いたのは現実の町だが、読者が読むのは、すでに夢の世界での話になっている。

2011年8月28日日曜日

戸塚付近のかまくら道


港南区との境


移設された江戸時代の庚申塔
(舞岡公園そば)


2011年8月23日火曜日

司馬遼太郎 街道をゆく 甲州街道


1971

1590年、徳川家康が江戸にやって来た時には、江戸城にはみすぼらしい館が建っていただけだったことを思うと感慨深い。
それ以前から、八王子には北条氏の城があったが、豊臣秀吉の小田原征伐のとき、はげしい戦いのすえ陥落させられた。
生き残った武士と武田の旧家臣の一部は、家康によって召抱えられ、のちに「八王子千人同心」と呼ばれるようになった。
多摩地方は、その後、幕府の直轄領として保護されたので、明治以降も徳川びいきの人たちが多かった。
ある年寄りなどは、三菱電機の製品は買わないと言う。なぜ買わないかというと、三菱は岩崎弥太郎で、岩崎は薩長土肥のうちの土佐の出身だからであると言う。それほど、徳川が好きで、薩長土肥が嫌いだということらしい。
幕末に活躍した新選組の近藤勇も多摩の出身である。
徳川慶喜は、鳥羽伏見の戦いで敗れ、江戸に逃げ帰ってから、あとは勝海舟に任せて、自らは蟄居してしまった。
勝海舟は、西郷隆盛との話し合いで、徳川慶喜の助命と江戸の無血開城に漕ぎつけた。
勝は、そのさい、江戸に新選組のような武力集団がいるとトラブルになると考え、近藤勇に地位と金と武器を与え、甲府を守る役割を与えた。そして、甲府を守ることができれば、甲州百万石の大名になれるかもしれないと思わせた。
近藤勇は新選組を「甲陽鎮撫隊」に組織替えし、江戸を発ってから、行く先々で酒宴を設け、故郷に錦を飾ったのである。
しかし、小仏峠を越えたころには、板垣退助の率いる官軍はすでに甲府を占領していて、勝沼で戦ったが敗退した。
江戸へ逃げてきた近藤に、勝は、流山で再起をはかるよううながした。
けっきょく、近藤は流山で官軍に捕らえられ、板橋で処刑された。
今から見ると、近藤勇が本当に大名になれるかもしれないと考えたとすれば、滑稽とも哀れとも思えてくる。
だが、いずれにせよ人間は失敗をするものである。後世の我々は、近藤勇をわらうことはできないであろう。

2011年8月19日金曜日

広尾


有栖川宮記念公園


2011年8月18日木曜日

大原健士郎 あるがままに老いる


2001 毎日新聞社

1930~2010

「老後はあるがままにやりますよ」といっても、功成り名をとげた人物が言うと納得するが、ろくでもない人生を送ってきた人間が、余生もこれまでと同じように、自堕落に過ごすのでは許せないという気持ちにもなる。
しかし、考えてみれば、ろくでもない人生を送ってきたのかどうかは、なかなか他人からはわからないことである。
老年にならないうちに、わざわざ玉川上水なんかで心中した作家の太宰治などは、本人はもちろん、世間からもろくでもない人生だったと思われているようだが、その作品はいまでも多くの人に愛読されている。
あまり苦労のない平凡な人生を送ってきた人は、それはそれで、後から後悔することも多い。
世間からは賞賛を浴びるような活躍をしている人でも、本人は悔いの多い人生を送ったと悔やんでいないとも限らない。
ところで、著者による「あるがまま」とは、放りっぱなしにするという意味ではなく、本来の自分の姿を十分に理解して、それをあるがままに伸ばして自己実現をはかることである。
本来の自分の姿を知ると、誰もが生の欲望を持っていることがわかり、この欲望にそって建設的に生きていくのが健康な人である。
世間では老人と言われている人のなかにも、まだまだ元気に活動している人がたくさん存在する。
老人になったからといって本来の自分が変わるわけではない。
いずれ来るに決まっている死ばかり考えているより、今日を精いっぱい生きるのが大切なのは、年齢には関係がないと著者は言う。

2011年8月14日日曜日

夏の花


おにゆり
残暑お見舞い申し上げます  
やまゆり


2011年8月13日土曜日

内田和成 仮説思考


2008 東洋経済新報社

正しい判断をするには、情報をたくさん集めればいいかというとそうではない。
なぜならば、情報を集め、分析するのに時間がかかり、そうしているうちに事態が進展して、判断が付いた時には、その価値が低下してしまうからである。
徹底的に調べてから答えを出すというやり方には無理がある。
では、どうすればいいかというのが、著者の言う「仮説思考」である。
「仮説思考」は、わずかな情報から、ともかく判断を導きだし、あとはそれを検証しながら補強していくやり方である。すくない情報から判断するので間違えることもあるが、新しい事実がわかったごとに訂正していけばいい。そのほうが、スピードのある的確な判断ができる。
はじめに仮説をたてて、おおまかな見通しをたててから、細部にいたるのである。
将棋の名人の思考法も、そうしたやり方でやっており、はじめにひらめいた手が、もっともいい手であったりする。
的を得た仮説をはじめにたてることができるためには、なによりも失敗をおそれず、経験をかさねることである。

「仮説思考」は、本を読むのにも使えるのではないだろうか。
本には、たいてい「はじめに」「目次」「おわりに」という部分がある。
この部分を最初に読んで、大まかなイメージを描いてから読んだほうが、ページを追って順番に読むより効率がいいし、理解がすすむ。
活字を追いかけるような読み方をしていると、途中で飽きてしまい、最後まで読むことは難しい。
小説のような読むこと自体が楽しみであるような本もあるけれども、一字一句丹念に読むやり方は、すくなくとも最初に本を読むときには賢いやり方でないことが多い。
ものを考えたり、仕事を進めるには手順があり、「仮説思考」は、すぐれた方法である。

2011年8月7日日曜日

赤レンガ倉庫


鴨長明 方丈記

1155?~1216

「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。」の出だしで始まる「方丈記」は、学校の教科書にのっているので誰にでもおなじみである。
作者は、それに続けて、人の一生も朝落ちて夕べには消える露のようだと言い、さまざまな災害を書き並べている。
作者は、50歳で家を出て、60歳のときには、方丈つまり3メートル四方の庵を山の中につくった。
この時代には、政治も不安定で、飢饉もしばしば発生し、世を捨てて山に逃れる人もかなりいたのであろう。
現代においても、停年退職後の元サラリーマンが読む本の中には、「方丈記」を解説したものが多い。気持ちだけでも、わずらわしい人間関係から離れて隠遁生活を送りたいと願う人が多いのだろう。
もっとも、作者は若い頃は大きな邸宅に住んでいたこともあり、身分も高かったという。さらに、庵のある山は、そこらの山ではなく山守がいる比較的安全なところだったと思われる。今でいえば、別荘地の小屋にひとりで暮らしているようなものではなかったのだろうか。
日本の風土は、昔から地震や台風にさらされ、火事も多いので、木造の建物はいずれ跡形もなくなってしまう。財産を築いても、自分のためではなく、家族や使用人、その他の人のためにしかならない。自分ひとりが生きていくには方丈もあれば十分で、花鳥風月を愛で自足した生活を送るためには、そのほうがかえって好都合だったのであろう。
今年、東北地方で大震災が起きた後に「方丈記」を読みなおしてみると、以前とは違う感動があった。地震や津波の話は、仏教的無常観を強調するためと思っていたのが、実際に起こったことをかなり正確に書いているのではないかと感じるからである。日本は自然災害の多い国で、たとえば富士山は、何度も噴火しており、いまから300年前にも大爆発を起こし、江戸に火山灰が降ったという。また、鎌倉の大仏は、もとは建物に覆われていたが、台風か津波によって建物が壊されて以来、再建されなかったので、今のような姿になっている。富士山は日本人に愛されているし、鎌倉の歴史的価値も否定することはできない。しかし日本の風土の多様性と美しさは、いっぽうでは、その脆さでもある。富士山や鎌倉を世界遺産に登録したとしても、そのことに変わりはない。

2011年7月31日日曜日

岩﨑哲夫 外資系の仕事術

2006 PHP研究所

1946年生まれ

外資系企業という言葉があるが、たとえば日産自動車やソニーのような企業もある意味では外資系企業である。
外資系といっても、いまでは企業がボーダーレス化しているので、日本企業と変わらない面も多い。
それでも外資系企業から受けるイメージとしては、実力主義で、仕事はバードだが、成果があがれば認められ、成果がなければ解雇されるというドライな面である。
就職先として大企業と中小企業を比べたばあい、大企業は安定していて余裕があるので、配属された部署に長く留まり、専門職として業務を深く経験するのには向いている。ただ、年齢を重ねるにつれてポストが無くなっていき、経営者の地位にまで登り詰めるのは至難の業で、時間もかかる。中小企業では、何でもしなくてはならないので、業務は広く浅く経験することになる。
そのため、会社の仕組みを全体的に学ぶ機会があり、自己責任で判断し、行動することができる。
中小企業では、事業が成功すれば若いうちに経営者になる機会もあり報酬も大きいが、失敗する可能性も高い。
このように見ると、外資系企業は、中小企業やベンチャー企業に近いということができる。
中小企業や外資系企業は余裕がないので、人を自前で育てるより、大企業出身者を即戦力として中途採用することが多い。そのため、大企業から中小企業に移る人も多いが、いろいろと職を変えるのではなく職は同じで会社だけ変わるほうがうまくいく。「転職」より「転社」を目指すべきである。

ところで、外国企業で働くと、自分の同僚や上司がその出身地の文化に根差した物の考え方や判断をしていることがわかる。
たとえば、アメリカ人の判断や行動を理解するには、移民国家としてのアメリカという国の成り立ちをまず考慮すべきである。
日本人のばあい、アメリカとは対照的で、異文化交流という点でも経験は少なく、ある意味では遅れている。
日本人は昔から和を尊ぶ精神を大切にし、集団秩序への同化と貢献を重んじてきた。
二百年以上のあいだ鎖国を経験したため、阿吽の呼吸で通じあう暗黙知の世界、突出を嫌う気質、情緒的思考、秩序と調和の尊重、従順な国民性、などの日本人の特質を育んできた。
このような日本人の特質は、競争と対決が原則の外国人からは、ときには、羨ましがられることもある。
今の時代は、日本の企業も海外へ出て、経済だけでなく文化も含めたさまざまな分野で、世界の人々との関わりを深めている。そのとき、日本の国内で通用してきたような価値観や文化はどのように変わっていくのだろうか。

2011年7月28日木曜日

蓮法寺(神奈川区七島町)


浦島太郎供養塔



浦島太郎は、丹後から本国に戻ったが、
すでに両親は三百年前に亡くなっていた。
落胆した浦島太郎は龍宮へ戻ったという。
 

2011年7月21日木曜日

浜口友一 ニッポンのIT その未来

2010 日本経済新聞出版社

日本はIT先進国である。
携帯電話は、ほとんどどこにいてもつながり、銀行の手続きは、たいてい機械ででき、電車は時刻表どおりに動き、「スイカ」を使えば自由に乗り降りできる。私たちが、あたりまえだと思っていることも、日本のIT技術がすぐれているためである。

しかし、問題がないわけではない。
これらのITやソフトは、ほどんど個別に企業内で開発され、外に出ることはない。
ソフトウエア技術者によっていちじるしい能力の差があるにもかかわらず、それが企業内で評価されることもない。
このように、日本のIT産業は、個別のシステム開発に力を注いできたので、みんなで使う基礎的なソフトであるOSなどは、アメリカ製やヨーロッパ製を使わざるを得なくなっている。

日本独自の問題と思われるのは、日本人の要求水準の高さである。
およそ、人間が作ったもので、完璧とか完全というものはあり得ない。
ソフトウエアも同じである。ちなみに、マイクロソフトのウインドウズは、しょっちゅうアップデートを繰り返している。
たとえ、ソフトウエアが完全だったとしても、メンテナンスやオペレーションは、間違いを犯す人間がしなければならない。
それにもかかわらず、日本では、システムに完全性を求める傾向が強く、銀行のシステムが数時間止まった程度で大騒ぎになる。
完璧を求めるのではなく、トラブルや事故があるのは当然のこととして、その時の対策を考えておくほうが合理的である。
はじめから壮大な構想のもとに完璧なものを作ろうとすると、途中で挫折したり、たとえできたとしても、複雑すぎて使い勝手が悪いものになってしまうことが多い。
政府が主導する大規模システム開発は、しばしば、そのようなことになってしまうようである。
ベンチャー企業などが、小さなシステムから始めて、ユーザーの要求を取り入れたり、参加させたりしながら、大きく業務を拡大していくことが多いが、そのほうがうまいやり方である。

2011年7月20日水曜日

樋口一葉 たけくらべ

1872~1896

樋口一葉は、日本人に最も愛されている作家のひとりで、その肖像は5千円札に取り入れられている。
24歳6か月の生涯のうち、作家生活は、わずか14カ月であった。
亡くなる2年ほど前に、吉原遊郭近くの下谷龍泉寺町で荒物や駄菓子などを売る雑貨店を営み、そのとき見聞きしたことが、思春期の少年少女を描いた名作「たけくらべ」を生み出した。
樋口一葉の才能は、子供たちの生活を、いきいきと描き出し、誰にでもある子供時代へのなつかしさと、いとおしさとに訴えかけている。

「龍華寺の真如が我が宗の修行の庭に立出る風説をも美登利は絶えて聞かざりき、有し意地をば其まゝに封じ込めて、此処しばらくの怪しの現象に我れを我れとも思われず、唯何事も恥ずかしうのみ有りけるに、或る霜の朝水仙の作り花を格子門の外よりさし入れ置きし者の有けり。誰れの仕業と知るよし無けれど、美登利は何ゆゑとなく懐かしき思ひにて違い棚の一輪ざしに入れて淋しく清き姿をめでけるが、聞くともなしに伝え聞く其明けの日は真如が何がしの学林に袖の色かへぬべき当日なりしとぞ」

2011年7月18日月曜日

2011年7月14日木曜日

種村季弘 雨の日はソファで散歩

2005 株式会社筑摩書房

1933~2004

七転び八起きの町へ

「ごろごろしているうちにふと新宿に行きたくなった。かれこれもう十年ほど新宿にはご無沙汰している。真鶴の家から小田原に出てロマンスカーで一時間十分。ちょっとした通勤距離程度なのにここ何年か新宿の顔を見ていない。いつの頃からふっつりと夜遊びをやめてしまったからだ。」(p100)

パソコンで路線検索をしてみると、小田原から小田急ロマンスカーを利用すると1時間16分、1720円。新幹線で東京に出て、新宿へ行くと1時間1分、3130円だが、東海道線で品川まで行くと新宿まで1時間43分、1450円とでた。
小田急でも、ロマンスカーでない急行を利用すると、1時間34分、850円となった。
こうしてみると、小田原付近の住人は、新宿へ行くのに小田急線を利用している人が多いのではないかと思う。
同様に、藤沢から新宿へ行くのには、直通の小田急快速で56分、570円であるが、東海道線で行くと1時間5分、950円である。最近できた湘南新宿ラインを利用しても、52分かかる。
小田原からばかりでなく、藤沢から新宿へ行くのにも、小田急を利用したほうがJRよりも得なわけである。

新宿と言えば、東京でも有数の繁華街で、東京の市街が西の方へ発展していくと同時に大きくなった、すなわち中央線沿線を後背地にするというイメージが強い。しかし、小田急線沿線からやってくる人もかなりの数になることだろう。

その新宿であるが、江戸開府当初は、東海道の品川、中山道の板橋、日光街道・奥州街道の千住、甲州街道の高井戸を江戸の四宿と言った。このうち五街道の出発点である日本橋から高井戸までは四里八丁あり、他にくらべて距離がありすぎるので、その間に新たに中宿を設けた。それが新宿である。
そこへ浅草から遊郭が移って来て、にぎわった。その後も、遊郭がとりつぶしになったり、大火にあったりしては再興された。
戦後の新宿も、ヤミ市ができたり、歌舞伎町が無法地帯になったりと、激しい変化を繰り返した。
たしかに、七転び八起きの町にはちがいないが、激しい変化に取り残された老人にとっては、思い出の町になっていく。

2011年7月11日月曜日

川端康成 三島由紀夫 往復書簡

1997 株式会社新潮社

川端康成    1899~1972

三島由紀夫 1925~1970

川端康成と三島由紀夫の師弟関係は、生涯変わることはなく、川端康成がノーベル文学賞を受けるときには、三島由紀夫が推薦し、三島由紀夫の葬儀では、川端康成が葬儀委員長をつとめた。

二人の交流は、昭和20年に20歳の三島が、人を介して自作を川端に贈ったときから始まる。
当時、川端は、すでに著名な作家であったから、若い三島が自分の著書を贈るというのは、相当な自負心があってのことであろう。
二人は、互いの作品を誉めあい、贈り物を交換したり、家族ぐるみのつきあいをしていたことが手紙のやりとりから、かいま見ることができる。
三島の才能がなければ、川端もここまでつきあわなかったのであろうが、三島も川端の文壇での力を利用したのかもしれない。

三島は、晩年、「楯の会」を作ったり、身体を鍛えたりして強そうに振る舞っていたが、川端と同じように、繊細で豊かな感受性の持ち主であり、この社会は、彼らにとっては、生きづらいところであったのだろう。
三島は、昭和45年11月、45歳で、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で自決したが、これも、あらかじめ計画された演出らしいことが、手紙からも窺うことができる。
昭和44年の手紙では、自分が恐れるのは死ではなく、死後、家族が世間に笑い物にされることで、護ってくれるのは川端さんだけだと書いている。昭和45年の手紙では、「時間の一滴々々が葡萄酒のやうに尊く感じられ、空間的事物には、ほとんど何の興味もなくなりました。この夏は又、一家揃つて下田へまゐります。美しい夏であればよいがと思ひます。」と書いている。

昭和47年4月、川端も、逗子マリーナ・マンションの仕事場で、ガス自殺しているのが発見された。

2011年7月10日日曜日

池田信夫 ウェブは資本主義を超える―その2

「日本のソフトウエア産業はなぜだめなのか」を読み返してみると、日本のソフトウエアがすべてダメだと言っているわけではないことがわかる。ゲームなどのソフトはいいが、政府が主導した産業政策としてのソフトはダメだと言っているらしい。さらに、著者は、ソフトウエア産業はダメだというより、ソフトウエア産業はダメになったと言いたいらしい。これ自体、その真偽は明らかではないが、日本のソフトウエア産業は、今ではアメリカ勢に比べることすらできないのではないかと素人にも思われている。
想像を巡らせば、かってコンピューターといえば、非常に高度な技術を要し、専門家にしかわからないと思われていた。
その頃、政府も、企業も、コンピューターの技術者を優遇し、自由に研究開発をさせた。
その結果、日本は、一時的には、アメリカのIBMに追いつき、日本人の優秀さを示すことができた。
しかし、それらが一段落して、官庁や銀行などの大組織で大型コンピューターが使われるようになると、巨額なカネが動くようになり、コンピューターのことをよく知っている人間ではなく、それに代わって、「交渉」とか「人脈」を得意とする人間が幅をきかせるようになっていった。
こうして、コンピューターを官庁に納入する企業は「ITゼネコン」などと呼ばれるようになってしまったらしい。
それと同時に、ソフトウエアの専門家が下請け化して意欲をなくしているということも、たしかに、ありそうな話である。
大企業では、優秀な人間がたくさんいるはずであるから、創造的な技術を持った人たちが、大企業から飛び出して、ベンチャー企業を立ち上げたりすれば、日本のコンピューター産業も活性化しそうなものである。
政府がするべきことは、そうしたことを可能にする環境を作ることであるように思われる。

2011年7月2日土曜日

池田信夫 ウェブは資本主義を超える

2007 日経BP社

1953年生まれ

日本のソフトウエア産業はなぜだめなのか


日本のソフトウエア産業は、初期から政府の手厚い保護と指導のもとに置かれてきた。
1960年代には、通産省はIBMの参入を遅らせ、電気メーカーを糾合して、IBM互換機を作らせた。
その後も、第5世代コンピューター、シグマ計画など、官民プロジェクトに多額の補助金を投入したが、すべて「失敗」した。
そのいっぽう、日本の社会の本流からはずれたところで三度の飯よりゲームが好きだという人たちがつくったゲームソフトは成功した。
ソフトウエアも、役所が保護した分野は失敗し、役所も大手メーカーも無視した分野が成功した。任天堂やソニーのゲーム部門は、80年代以降にできたので、重厚長大産業のようなピラミッド型組織ではなく、小さな若いソフトハウスの連携によって多様なゲームソフトが開発された。

大事なことは、日本人の持っている創造性を下請け・孫請け型の「ITゼネコン」構造に埋没させないで、自由に発揮させることである。技術者のモチベーションを引き出し、彼らのアイデアをビジネス化して、多様な実験を可能にすることである。そのためには、役所やITゼネコンが退場することが必要である。

明治以来、日本は行政に権限と情報を集中し、民間の資源を総動員して「富国強兵」をめざす国家体制をとってきた。こうした集権的な統治機構は、追いつき型近代化の局面では一定の効果を上げたが、民間企業だけで問題を解決することを妨げてきた。
霞ヶ関には、いまだに富国強兵の遺伝子が強く残っている。このような「国のかたち」を見直し、資本市場や司法改革によって、問題を民間で分権的に解決する制度設計を行なうことが日本の課題である。経済産業省が音頭をとって「産業政策」を推進するのはやめたらどうかというのが、著者の意見である。しかし、著者も言っているように、役所の力が弱くなるような改革を官僚自身が行うことは困難であろう。

(注)ITゼネコン
公的なコンピューター・システムの受注額の4分の3は、わずか6社で占められ、こうした企業は、建設業のゼネコンとくらべて、「ITゼネコン」と呼ばれている。

2011年7月1日金曜日

響橋

響橋(鶴見区)

2011年6月23日木曜日

辻井喬 西行桜

2000 岩波書店

1927年生まれ

辻井喬は小説家のとしてのぺンネームで、本名は堤清二。
堤康二郎の子で、学生時代には親に対する反発から共産党に入党したこともある。
バブル時代には、西武百貨店、西友、パルコ、良品計画、西洋環境開発などのセゾングループを率いて、一世を風靡した。
バブルが崩壊すると、金融機関からの多額の借り入れに依存して事業を拡大していたセゾングループの経営は行き詰まり、1991年には、セゾングループの代表を辞任した。さらに、2000年には、セゾングループは解体された。

能は、文字通り「能面のようだ」と言われる仮面の下に、人間が本来持つ「情念のマグマ」、または仏教風に言えば、「煩悩」に悩まされる様をドラマにしたものである。
情念というのは、愛、憎しみ、嫉妬、恨みなどであるが、人間は、表層の下に、「情念のマグマ」を抱えており、それが吹き出さないように大変な苦労をしている。能においては、「情念のマグマ」は、鬼や怨霊となって現れ、災いを引き起こすのであるが、僧侶などの加持祈祷によって鎮められたりする。
能は、しばしば、源氏物語、平家物語や和歌などの古典に材料を求めている。

著者は、能を題材にして、竹生島、野宮、道盛、西行桜という現代風の小説を書いた。
そこで、登場人物は、たとえば没落した華族、会社から追われた経営者、嫉妬で恋敵を呪い殺す女などになり、能のドラマに重ね合わせて、幻想的な雰囲気を漂わせることになる。しかし、そうすると、現代風というよりは、いくぶん時代がかった雰囲気の、登場人物に現実感のない作品にならざるを得なかったようである。というより、能の登場人物自体が人間ではない存在とされているので、それは必然的でもある。もっとも、私は、小説中の人物を通して著者の言葉が語られているとすれば、著者のそれは、庶民のそれとはいくぶん違うのかもしれないなどとへたな考えをめぐらせたものである。

本書は、謡曲のパロディなので、六條御息所は六條泰枝として、夕顔は悠子として登場してくる。
能や古典を知らなくても、読めるけれども、それらの古典を少し知っていると、よりいっそう面白くなる気がする。

2011年6月19日日曜日

6月の花


がくあじさい


たちあおい


2011年6月17日金曜日

藤原正彦 日本人の矜持 九人との対話

2007 株式会社新潮社

曽野綾子との対話より

曽野 それにしても、こうした日本の伝統を破壊し、戦後教育をここまでダメにした責任は誰にあるのか。戦後教育における日教組というのは、大東亜戦争における軍部と同じくらい罪が重いと思いますね。
藤原 私は、日本の戦後教育は米ソ、すなわちGHQと日教組という二つの勢力によって破壊されたと考えています。悪平等主義教育を主張した日教組の背後には、モスクワのコミンテルンがあった。そして、アメリカ主導のGHQの最大の目的は、日本が二度と自分たちに歯向かわないようにすることですから、そのために『日本の戦前は暗黒だった』と決め付け、文化や伝統を否定し、日本人の日本人たる根幹を破壊しようとしたのです。そのために押し付けたのが、『戦後民主主義教育』にほかなりません。敗戦直後、日本の国柄の破壊という点で、米ソの思惑は完全に合致してしまったわけですね。一国を滅ぼすのに武力は要らない。教育さえ破壊すれば、熟した柿が落ちるように自然に滅んでくれる。
それが今の日本の惨状だと思います。」(p.76)


「戦後民主主義」は、「焼け跡民主主義」とも言われていて、空襲で焼け野原になった跡に花開いた民主主義である。
民主主義で皆が平等だと、日本人が頑張ってきたのも、戦後の復興や経済成長の要因であろう。
しかし、「戦後民主主義」で育った「団塊の世代」は、もはや老年期にさしかかっているのに、これといって誇れるものもない。このところ、15年以上にわたって、何か世の中が変だという「空気」もある。
その理由を、著者は、GHQとか日教組による戦後教育だと言う。
かなり感情的な意見ではあるが、いまでは支持する人もいるらしい。

2011年6月11日土曜日

渡辺淳一 あとの祭り 親友はいますか

2009 株式会社新潮社

1933年生まれ

「ときどき、思いがけない質問を受けることがある。
つい先日も、ある若い女性から、『先生の親友はどなたですか?』ときかれた。
本人としてはあどけない、ごく自然の質問だったのだろうが、わたしは一瞬戸惑った。
正直いって、そんなことをきかれるとは思ってもいなかった。いや、それ以上に戸惑ったのは、彼女がいう、親友の顔を思い出せなかったからである。
そこで、『いないなぁ・・・』と答えると、彼女はあっさりうなずいて、別の話に移ったが、わたしはその質問の余韻から抜け出せなかった。」(p88)

歳を取って「親友」がいるのは、ごく特殊なケースらしい。
著者は、男の場合、地位や立場が違ってくるにつれて、親しみがうすれ、離れ離れになっていくと言う。
歳をとると、新しい友人はできることがあるが、それは「親友」とは少し違うようである。
若いうちは、比較的、友達をつくるのは容易である。ところが、次第に、立場が違ってきて、共通のものがなくなっていく。
とくに、男のばあい、「親友」のあいだに、「女」がはいってくると、たちまち、お互い「敵」になってしまうことがある。
それより、なにげなく言われた心ない一言だけで、人を傷つけるのには十分である。
ようするに、歳を取ると、いかに「親友」になるのが難しいか、そのいっぽう、失うのは一瞬のことであるかがわかる。
そのため、男は、はじめから「親友なんか、いないよ」と言って、拗ねてみせるのではないだろうか。

2011年6月10日金曜日

雨宮処凛×佐高信 貧困と愛国

2008 毎日新聞社

雨宮処凛 1975年生まれ

佐高信  1945年生まれ

「右翼」や「愛国」に心を寄せる若者が増えているという。
フリーターなどと呼ばれている「貧困」な若者がなぜ「右翼」や「愛国」なのか。
彼らは、自分たちが今のような立場に置かれているのは、「戦後民主主義」のためだと思っているらしい。
雨宮は、「子供たちを戦場に送りだしてはならない」と訴えている「反戦平和」の教師が、学校では、ひどい「いじめ」がされているのに、見て見ぬふりをしていたと言う。
彼らが、「戦後民主主義」に反発するのは、学校や教師にたいする失望や反感が原因のひとつになっている。
これに対して、佐高は、「彼らは標的をまちがっている。格差社会を作ったのは、小泉、竹中だ」と反論するが、信じ込んできた「学校民主主義」のひ弱さを突きつけられたのには、ショックを隠すことができない。
小泉、竹中の「新自由主義」や「市場原理主義」に基づく「構造改革」は、競争に勝った者と負けた者との「格差」を拡大し、「貧困」な若者を多数生みだしたと論じる人もいる。
佐高は、この点を指摘して、「小泉、竹中が悪い」と言うのである。
いっぽう、「戦後民主主義」は、個人の自由を強調し、愛国心や道徳は軽視してきたため、人と人との絆は希薄になり、バラバラで孤独な個人を作ってきたという一面もある。
人と人との助け合いや思いやりのない社会は、「格差社会」の『負け組」には、よりいっそうきびしいものになる。
学校では教えられることのなかった「愛国」や右翼的な考え方は、「貧困」な若者にとって、新鮮な驚きらしい。
また、グローバリゼーションの最底辺で働いている若者の同僚は、中国人や韓国人である。最底辺で外国人といっしょに働いていることが、彼らを、よりいっそう「愛国」のほうに向かわせている。
なかには、世の中をリセットするには「戦争」まで望む者がいるという。「戦争」があれば、再チャレンジできるかもしれないが、そうでもなければチャンスはないという。

行き場のない不満が社会に溜まってきているのかもしれない。

2011年6月9日木曜日

中西輝政 アメリカの不運、日本の不幸

2010 株式会社幻冬舎

1947年生まれ

著者は、右翼の論客と言われているが、「なるほど」と思わせることも多い。
副題は、「民意と政権交代が国を滅ぼす」である。
いつの時代でも民主主義にとって最も罪深いのは政治家とマスコミである。
政治家は、「票」と権力ポストのためなら何でもする。
マスコミは、視聴率のためなら国を売るようなことを日々くりかえしている。
大衆は、マスコミに踊らされ、テレビを見て簡単に判断し、それを自分の考えと勘違いして投票する。だから、いちばん悪いのはいわゆる「民意」なのである。
多くの歴史家は、まちがった戦争を検証するとき、その責任を大統領や軍部のせいにする。しかし、自国の歴史に重大な責任を感じるべき「A級戦犯」こそは国民大衆である。民主主義社会において、国民大衆という最大多数を最大悪人として糾弾することはできない。これが、民主主義社会の最大の弱点であり、最大のタブーになっている。
民主党による政権交代は、多くの国民の期待を裏切ることになっているが、それというのも視聴率第一主義のマスコミに踊らされた国民大衆自身のせいでもある。
日本は、急速に「統治不能」の国になりつつあり、いまやギリシァ危機も他人事ではない。
著者のような、「マスコミが悪い」という意見が、新聞やテレビで取り上げられるとも思われないが、新聞に書いてあることや放送されていることでも、疑ってかかる態度は必要であろう。
これを、新聞やテレビの側から見ると、どうなるだろうか。
新聞は、一日経ったら「新聞紙」と言われるように、記事や意見の多くは、その日限りのようなものである。テレビのコメンテーターは、テレビ局から高額のギャラを貰っているので、沈黙したり、「わからない」とか、「後で考えてみます」などと言うことはない。そのため、これまた、一般受けするコメントを発している。
マスコミと世論とは、影響しあいながら世論を作っているので、まったく別というわけではない。

2011年6月7日火曜日

日本経団連出版編 社会人の常識

2010

ダイバーシティ

経営におけるダーバーシティ(多様性)とは、多様な人材を重要な資源として経営に活かしていくことである。
ここ数年、女性、外国人、障害をもつ人の登用がすすみ、組織の雰囲気や考え方が大きく変わってきている。

障がい者を雇用することが、企業の社会的責任の一つとされるようになった。
今では、障がい者も健常者も隔てなく同じ社会で生きていくべきであるという「ノーマライゼイション」の考え方が浸透し、障害のあるなしも、人間の多様性のひとつとして考えられるようになっている。

「セクシャル・ハラスメント」が法律で禁止されるようになったのは、1999年に男女雇用均等法が改正されてからである。当初は、女性にたいする差別を禁止する法律であったが、2007年の法改正により、性別による差別を禁止する法律へと改められた。
かっては、女性を「~ちゃん」などと呼んで、「俺は、女を使うのがうまい」などと自慢していた年配者も、今ではどうしているのだろうか。

企業においても、グローバル化が身近なものになり、職場に外国人の社員が多数雇用されるようになった。
最近では、欧米系だけでなく、インドや中国といったアジア系の社員の雇用も増加している。
そのため、最近では、異なる文化的背景を持った社員の間で、文化摩擦や誤解、偏見が頻繁にみられるようになってきているという。
グローバル化された職場においては、文化や価値観の違いをその人の個性として受け入れ、尊重するように全員が配慮しなければならない。

ビジネス・マナーと言っても、昔とは、ずいぶん違ってきたものである。

2011年6月5日日曜日

奥多摩


奥多摩湖
 6月4日、友人と奥多摩むかしみち(旧青梅街道)を歩きました 
吊り橋から下を見る
 
奥多摩駅付近


2011年5月30日月曜日

森見登美彦 宵山万華鏡

2009 株式会社集英社

1979年生まれ

京都の夏は、祇園祭の季節である。
そのなかで、山鉾という山車を目当てに、大勢の観光客が訪れる。
山鉾が市街を巡行する前夜の祭を宵山という。
本書は、著者の、一連の京都を舞台にした小説のうちのひとつである。
京都を舞台とした小説は多いが、じっさいに生活している(と思われる)著者の生活感が出ているようだ。
登場人物も、誰が何の役割なのかもはっきりしないし、何が言いたいのかも定かではなく、特に意味もない。
しかし、本を読んでいるうちは、著者独自の空想世界に遊ぶことができる。
現実逃避の妄想世界かもしれないが、独特の文体の文章を味わうのも楽しみである。

「奥州斎川孫太郎虫」という虫のネーミングは、たしかにインパクトがあり、じっさいに漢方薬(というより日本固有の民間薬)として売られていたらしい。
この虫が祇園祭宵山の隠れた風物詩となりつつあると書かれているが、本当だろうか。

本書を通じて、巨大な化け物のような金魚や、金魚すくいで売られているような可憐な金魚など、赤い金魚のイメージが繰り返し現れる。金魚は著者の育った奈良の特産で、夏の言葉でもある。

本書を読んで、今の若者は、あえて高のぞみなどせず、彼らなりに楽しんでいる人も多いのではと思う。
戦後世代は、土地や家、自動車を欲しがったが、これからは、そういうモノを欲しがる人も、減っていくことだろう。

2011年5月27日金曜日

荘司雅彦 最短で結果が出る超勉強法

2007 株式会社講談社

1958年生まれ

著者は、東京大学法学部を卒業後、日本長期信用銀行に入行、二十代後半に一度転職した後、司法試験の勉強を始め、独自の勉強法を考案して、当時としては最短で司法試験に合格した。
抜群の成果を上げてきた勉強法を公開したのが本書であるという。
今では、一生懸命勉強して、いわゆる一流大学を卒業すれば一生安泰という時代ではなくなっている。著者の知っている範囲でも、東大を出ているのに、かなり厳しい経済状況にいる人や、定職につけない人がかなりいる。
弁護士も、もはや肩書きだけで安泰というわけではなくなっている。
学歴や資格を持っているだけでは、極端な話、生きていくことさえ困難な時代になったと考えるべきである。
ただ、学歴や資格は、持っていないよりも、持っていたほうがマシである。
学歴や資格がないと、せっかくのチャンスを逃してしまうことも少なくない。
だから、人生の可能性を高めるためには、勉強に自己投資して、できることなら学歴や資格を持っていたほうがいいという。

著者の言い分が正しいとすると、今では東大を出ていても安心できないらしい。
日本の企業では、学校で何を勉強してきたかとは関係なく、企業では新卒者を独自に育成して、定年まで雇用してきた。
中途採用はしない村社会なので、定年前に辞めると裏切り者扱いにされる。
このような企業の雇用慣行を考えると、たとえ、東大を出ていても、転職は難しく、条件も不利になる。

ちかごろでは、新卒の就職も厳しくなっているらしい。
法学部のばあい、さらに、法科大学院へ進まなければ、司法試験に合格できず、それも、全員が合格できるわけではない。
法科大学院を出た学生を採用する企業は少ないから、学歴はあるのに就職できない若者をつくりだしているようなものである。
昔は、大学が主で大学院まで行く人はごくわずかだったが、今では、大学院がやたらと増えている。
大学院まで出て就職先が見つからないのが大きな社会問題になっている。

2011年5月25日水曜日

ハーブ・コーエン FBIアカデミーで教える心理交渉術

川勝久訳

2008 日本経済新聞出版社

交渉とは、何かをもらいたい相手から恩恵を施してもらえるように、知識を活用して努力することである。
社会は、巨大な交渉の場である。そこでは、優秀な人が報われるとはかぎらず、有能であるだけでなく、自分の欲しいものに向かって突き進んでいく「交渉能力」をかねそなえた人が勝利をおさめる。
人生を変えられるか否かは、自分の交渉能力しだいである。交渉能力とは、信じて疑わない相手をだましたり、おどしたりする能力のことではない。情報、時間、力を分析して相手の行動に影響を与える能力のことであり、相手側と自分側の双方の要求をかなえて、ことを思い通りに運ぶ能力のことである。

自分自身にかかわる交渉でも、あまり深刻に考えるのはよくない。自分のことを心配しすぎるので、プレッシャーと緊張感にあえぐことになる。他人のために交渉するときは、ずっと気が楽で、客観的になっている。たいして心配もしない。事態を遊びかゲームのようにとらえている。どんな状況にあっても、まるでゲームのように、幻覚の世界のように、努めて思うべきである。ベストを尽くすべきだが、思いつめてはならない。

多くの人にとって、この世は競争社会である。人生を絶え間のない勝負の連続だと思っている人もいる。このような競争型(ウィン・ルーズ)の交渉者は、この世を勝ち負けの連続とみなしている。
こういう関係がずっと続けば、交渉の結果は、後々の相互関係に後遺症を残すことになる。
これに対して、協調的なウィン・ウィン型の交渉では、相手を倒すのではなく、「問題を倒す」ことに焦点をあてる。関係者全員に満足のいく利益をもたらそうと努力することによって、交渉者がともに勝利する道をさがすのである。

交渉に入る時は、いつもソフトな物腰でなくてはならない。自分の立場を温和に述べ、頭をかき、自分がまちがっているかもしれないことを認め、嫌な相手にも、つねに如才なく敬意を払い、相手の身になって考えよう。
こうして、相手との信頼に根ざした関係を発展させながら、相手の真の要求を見出だし、それを満たす方法を考えると同時に、自分の欲しいものを手に入れるのである。

2011年5月24日火曜日

辛坊治郎 辛坊正記 日本経済の真実

2010 株式会社幻冬舎

辛坊治郎 1956年生まれ
辛坊正記 1949年生まれ

現在の日本経済の低迷ぶりを嘆き、戦後復興期の日本は、とても元気だったと、昔をふりかえる人は多い。
完成間近の東京タワーを背景に「三丁目の夕日」が日常で、誰もが明日は今日よりきっと豊かで幸せになれると信じていた。東京タワーは1958年に完成し、1960年には池田内閣が「国民所得倍増計画」を打ち上げ、洗濯機、冷蔵庫、テレビという「三種の神器」が家庭に普及し、1964年の東京オリンピックを控えて首都高速道路、東海道新幹線が開通した。
1968年には、日本はアメリカに次ぐ世界第二位の経済大国となり、1970年の大阪万博には大勢の入場者が列をなした。
「モーレツ社員」や「企業戦士」という言葉がはやり、「受験戦争」のなかで、日本の学生の学力は世界一だと自慢した。
「高度成長時代」には、国民は、自信と向上心にあふれていた。

しかし、同時に、この時代は、国鉄、電々公社など、民営化されておらず、仕事は不効率で、サービスも悪かった。
労働組合が強く、労働組合に支持されていた社会党は、社会主義を目指していた。
1960年の「安保闘争」から1970年頃まで、今では死語となってしまった「全学連」や「全共闘」の「学生運動」の嵐が、全国の大学を吹き荒れた。
大蔵省、通産省などの官僚の力は、今よりずっと強く、事実上、統制経済、計画経済であった。
日銀はもちろん、「日本興業銀行」などに入るのは超エリートであった。
このころの日本は、1ドル360円の固定為替レートで、日本人には、輸入品は高級な「舶来品」で、めったに買えず、ひたすら輸出に励んでいた。海外では、中国は、いまの北朝鮮のように、はるかに遠い国であったし、アラブ諸国も砂漠の遊牧民にすぎなかった。
このように、今になると、あの時代を美化しがちであるが、その当時の国民は、不満が多く、けっして満足していたわけではない。

その後、あまりにも多くのことが変わってしまったにもかかわらず、当時の気分や考え方は、いまだに残っている。
「経済の豊かさより心の豊かさのほうが大切」と言う人は、これからも日本を豊かな国でありつづけると思っている。
「外資に日本が乗っ取られる」と言う人は、外国人の日本たいする投資によって日本の雇用が生まれ、消費が増えることを理解しない。
とりわけ人数の多い「団塊の世代」は、若い頃、もてはやされた記憶が消えず、いまだに自分たちを、世の中の中心だと思っている。
「団塊の世代」が退場するころには、日本は、かなり違った国になっていることであろう。

2011年5月18日水曜日

雨宮処凛 右翼と左翼はどうちがう?

2007 株式会社河出書房新社

1975年生まれ

右翼は、日本の伝統を守り、国を愛する体育系、左翼は、反権力で、自由と平等を唱えるインテリといったイメージがある。
天皇にたいする意見では、右翼は天皇を中心とした日本を愛し、左翼は、天皇制に反対する。
憲法については、右翼は憲法を改正して軍隊を持とうとし、左翼は憲法を護り反戦平和をスローガンとする。
左翼は、共産主義や社会主義をめざし、右翼は、徹底的に反共である。
右翼は、靖国神社に参拝に行き、左翼は、靖国神社を「戦争に行かせる装置」として反対する。
前回の戦争については、右翼は被害者的、左翼は加害者的な見方をしている。

左翼の運動は、明治時代に、日本が近代的な資本主義国家になり、資本家と労働者の区別ができたころに始まる。左翼には、社会主義者、共産主義者、無政府主義者がいるが、いずれも政府によって厳しく弾圧された。それに対して、右翼は、現状には反対だが、徹底的に反共という特徴がある。
戦後、左翼にとって華々しい時代がやってきたように見えた。労働組合がつくられ、共産党が解放され、中国では共産党による革命が成功した。しかし、共産党や社会党は、選挙では多数を獲得することはできなかった。
これにたいして、選挙ではなく、直接行動に訴えようとする新左翼が現れた。
新左翼は、60年の日米安保条約改定に反対し、激しい闘いを繰り広げた。
その後、70年安保を前に、ベトナム戦争反対、成田空港反対など、闘いを激化させていった。その頂点は、1968年の国際反戦デーで、この日、いたるところで学生と機動隊が乱闘を繰り返し、さながら市街戦のようであった。
全国の大学では、全共闘がバリケードを築いて無期限ストを行い、東大安田講堂を占拠して機動隊と攻防戦を繰り広げた。
最後に、過激な「赤軍」が登場し、よど号ハイジャック事件、あさま山荘事件を引き起こした。
世間から見放された左翼運動は、一気に下火になり、いろいろな左翼組織内部で「内ゲバ」が繰り返された。

1990年代にはいり、ソ連が崩壊して、社会主義圏の国が消え去ると、左翼は急激に勢いを無くしていった。
左翼の勢いが弱くなると、敵をなくした右翼の存在も、それほど目立たなくなり、国全体が、それまで右翼が主張していたような方向に動きつつある。

今の若者は、「高学歴ワーキングプア」と言われているように、一生懸命勉強して高い学歴を身につけても、社会では、かならずしも報われない。
従来の左翼や右翼は、そのような問題に対する答えを持っていない。
かって右翼に属していた著者は、右翼とか左翼とかと分類されたくないと考えている。右翼とか左翼とかいうレッテルがついた時点で、自分の考えかたがしばられてしまう気がするからである。

2011年5月14日土曜日

安田佳生 採用の超プロが教えるできる人できない人

2003 株式会社サンマーク出版

1965年生まれ

発明王エジソンの言葉に、「1パーセントの才能と、99パーセントの努力」というものがある。
この言葉を、大部分の人は、「エジソンでさえも、99パーセントは努力によって成り立っていた。大事なのは努力だ」と考える。エジソンもそう言いたかったのかもしれない。しかし、人材採用コンサルタントの著者としては、どうしても「1パーセントの才能」のほうに目が向いてしまう。と言うのは、どれほど努力しても、才能がなくて開花しなかった人が大部分だからである。つまり、成功するには「人一倍の努力」と「少しの才能」の両方が必要不可欠なのである。
才能がなくては、努力も無駄になるだけで、せめて、1パーセントぐらいの才能がなければ発明はできない。残念なことに、現実には、この両方を兼ね備えている人材は、数百人に一人ぐらいである。
だから、企業がほんとうに優秀な人材を採用するのは非常に難しい。採用しても、育てるのはさらに難しい。

そこへいくと、大企業では、一度に数百人も採用して競争させるので、さぞかし優秀な人材が残りそうなものである。

いっぽう、本書では、ダーウィンの話も紹介されている。生き残るのは「強い種」ではない。「優秀な種」でもない。「変化した種」だけが生き残ったのである。
それでは、企業で生き残ったのは、なによりも変わり身が早く、適応力があった人で、かならずしも才能があって優秀な人ではなかったのだろうか。

いまや、日本人のレベルは、世界をリードできるほど優秀ではなく、世界には日本より勤勉で優秀な人材はたくさんいる。
かっての「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と言われた日本はどこへいってしまったのか。
人材の育成に問題があったことも、ひとつの要因ではないだろうか。

2011年5月10日火曜日

田中均 プロフェッショナルの交渉力

2009 株式会社講談社

1947年生まれ

著者は、外交官として、アメリカや北朝鮮を相手に厳しい交渉にあたってきた。
交渉力とは、たんなる交渉術ではなく、交渉によって、自分にも相手にも、利益を生み出すには、どうしたらいいかという基本が必要である。双方にとって利益にならないのであれば、交渉は成立しない。
日本とアメリカとの交渉、日本と北朝鮮との交渉においても同じであり、相手が何を求めているのか知らなければならない。
一方的に沖縄の基地を返せと要求したり、拉致被害者を返せと要求しても交渉は進展しない。
個別の問題は、おおきな枠組みに乗せることによって、同時に解決することができる。

交渉には、裏付けとなる権力を必要とする、決定権を持っている人物が関わらなければ、交渉はまとまらない。
国の場合は、総理大臣が最終的な権力を持っているので、最後には、総理大臣の決断が交渉がうまくいくかどうかを決める。
そのため、黒子である外交官という官僚は、確信ができあがるまで十分に関係者に報告し、説明しなければならない。

著者は、日本が普通の国になるためには、将来、憲法を改正して、軍備をもつことをはっきりと明示すべきであると考えている。外交という場において、過去に、湾岸戦争で多額の資金を出させられたあげく、ろくに評価されなかったという、にがい経験をもっているからである。憲法を改正したからといって、日本が戦争に巻き込まれるというわけではなく、普通の国はどこでも、軍隊を持つことを認めていると著者は言う。日本は、憲法を改正しないまま、憲法解釈によって、軍備を拡大し、自衛隊を事実上の軍隊にしてきた。しかし、外交交渉という場においては、自衛隊を正々堂々と軍隊として認めなければならないということなのであろう。

北朝鮮との交渉では、小泉首相の訪朝によって拉致被害者のうち、何人かは帰国することができた。
しかし、著者は、評価されたのではなく、逆に、各方面から熾烈なバッシングを受けた。
北朝鮮と合意した日朝平壌宣言に北朝鮮に迎合する部分があったとか、ウソの死亡情報が発表されたためであろう。
それでも、著者は、職業的満足感を感じているという。

2011年5月6日金曜日

中村隆英 昭和経済史

1986 株式会社岩波書店

1925年生まれ

東京電力は、戦時中の国家統制時代を経由して、戦後できた会社である。
東日本大震災による原子力発電所の事故により、東京電力には、巨額の賠償責任が生じている。
巨額の賠償を、一民間企業だけでまかなえるのか、また、国の政策として原子力発電が推進され、許可されたのだから、企業の経営責任だけの問題ではないのではないか。

今の電力会社は、戦時中に国家総動員法により、電力が国家によって管理されるようになったことに始まる。
戦前には、多くの電力会社があって競争していたが、国全体として電力業が統制となり、各電力会社の持っている発電設備、発電所と長距離送電線を、日本発送電という一社が経営して、電力会社はそれを地方で配電するだけとなった。
さらに、昭和16年になると、個々の電力会社は全部解散させられ、地域別の配電会社がつくられた。

戦後、日本発送電は解散し、当時の配電会社が、地域別の電力会社となり、発電、送電設備まで持って、現在のような東京電力や関西電力などの九電力会社になった。

このように、今の電力会社は戦争当時の政策によってできたもので、民間企業ではあるが、独占企業で、役所との結びつきが強く、役人の天下り先になっていた。

原子力発電所の事故が起きるまえは、東京電力は、巨額の広告費を使って、原子力発電は環境にやさしいクリーンエネルギーであることをアピールし、「オール電化」は庶民のあこがれで、東京電力のイメージは非常に良いものであった。

しかし、これからもこのままで、続けていかなければならないというわけではない。
太陽光発電、バイオマス発電といった小規模な発電を自由化すれば、地方での投資も生れ、電力の供給が増えることが見込まれる。
原子力発電所の事故による賠償負担のために、同じ電気なのに、東京電力だけ値上げになったり、計画停電になったりというのも、利用者にとっては、納得できにくい。送電は全国を統一したほうがいいという意見もある。

2011年4月30日土曜日

風早正宏 ここがおかしい日本の人事制度

2007  日本経済出版社

1932年生まれ

本書も参考にして、日本の会社での人事を考えてみる。

まず、入社すると、大卒も高卒も、現場に配属され、現場の長によって、評価される。評価のポイントは、会社への忠誠心、すなわち、上司に気に入られるかどうかである。その点、大卒は、なにかとエリート気取りで、会社への忠誠心に欠ける。
個人の能力差は、ほどんど無視されているので、仕事は、現場で一から教育される。ここで、空気を読んで、上司にゴマをすったり、愛社精神をアピールしたり、他の社員を率いたりできれば、現場の長から一目置かれる存在となる。

上司は、能力や実績よりも、自分の好き嫌いによって、部下を評価する。
かえって、部下に特殊な能力があると、悔しい思いをさせられた上司は、悪い評価をすることが多い。
上司は、しばしば、自分勝手で、不公正、デタラメな人事評価をしている。
それでも、会社での建て前は、部下を直接知っている上司の評価が正しいというものである。部下が上司に気を使うことによって、ピラミッド型の管理組織の秩序が成り立つからである。
部下は、人事評価に不満があっても、終身雇用が建て前なので、よその会社に移ることは、簡単にはできない。

40代では、エリートコースとその他一般コースの選別が、ほぼ終わっている。
エリートコースは、地位は上がっていくが、実際の仕事よりも、部下の管理や営業が主になる。
一般のコース以下は、能力のあるなしにかかわらず、仕事のできるベテラン女子より劣ると見なされる。
出世組は、カラ威張りしてはいるが、仕事はわからないので、現場のベテラン女子のご機嫌をうかがい、「女の子は、よくやっているが、男はダメだ。」などと言って、まるく収めようとする。

会社は、忠誠心を最も重視し、社員を特定の部署に長くとどめないようにして、専門家をつくらない。
このように、組織への従属と忠誠心を重視する日本企業のなかでは、個人が確立されることはなかった。
経済が成長しなくなれば、「終身雇用、年功序列」も、いずれ、維持することはできなくなる。
それでも、日本人がこの仕組みにこだわるのは、江戸時代の幕藩体制、儒教道徳と同じ仕組みなので、ある意味で居心地がいいのであろう。

2011年4月24日日曜日

伊東光晴 政権交代の政治経済学 その2

2010 株式会社岩波書店

郵政改革はどうなるのか

郵政民営化は、「民間でできることは、民間で」などと言われたが、それだけでは、かならずしも理由にはならない。そこで、誰が得をし、誰か損をするかというと、得をするのは郵貯・簡保を支配下におくことができる旧大蔵省および郵貯の力を弱くしたい銀行である。損をするのは、合理化や閉鎖されるおそれのある地方の特定郵便局などの郵政族である。

郵政族の力も強かったので、西川社長が「かんぽの宿」を売却しようとすると、鳩山総務大臣は、許可しなかった。
「かんぽの宿」は、利益をあげることを目的とするものではなかったのだが、利益をあげることを目的とする民間企業のやり方で、これを処理しようとすれば、郵便事業ではないのだから、売ってしまうのも、ひとつの方法である。
オリックスに売る価格が安すぎるとしても、さらに転売して儲けるのでなければ、利権とまでは言えない。
民間企業では、いくらコストがかかったものでも、将来利益にならないのであれば、安くても売ったほうが合理的である。
三井住友銀行の頭取として経営手腕を買われた西川社長であったが、辞任に追い込まれたのは無念であったろう。

他方では、過疎地の郵便局が採算に合わないため無くなったり、郵便や宅配が遅れるとすれば、民営化がよいことだとは言えない。
民営化をすると、どうなるのかが十分議論されず、言葉だけが一人歩きしたのかもしれない。

年金問題について

長妻氏は、年金問題で厚生労働省を追いつめ、政治家としての点数を上げ、厚生労働大臣になった。
著者は、氏の激しい批判に違和感を禁じえなかったと言う。
消えた年金問題は、制度設計に誤りがあり、その責任は各政党にあると考えるからである。
日本では、年金は自己申告制であり、自己申告が無ければ、年金記録は断片的にならざるを得ない。
責任の一端は年金記録に無頓着で、場合によっては虚偽の申告すらおこなっていた企業や一部国民にもある。
社会保険庁だけを責め続けるのは、フェアとは言えないだろう。
制度設計に責任がある政党の責任を不問にして、年金記録の無駄な作業のために巨額の税金が費やされている。

自民党の枡添氏と同じように、政治家が役人を攻撃して国民の歓心を買おうとしている一面が見える。

2011年4月23日土曜日

佐野研二郎 今日から始める 思考のダイエット

2010 株式会社マガジンハウス

1972年生まれ

著者は、アートディレクターとしてさまざまな企業のブランディングや商品開発などを手がけてきた。
アートディレクターの仕事は、いろいろな問題や課題にとりくんで、シンプルで明快、強い印象のある視覚的コミュニケーションをつくることである。

「昨日食べたものを、覚えていますか?
もし、昨日、焼き肉を食べたのだとしたら、それを強く記憶しているはずですが、バランスよい定食を食べたのだとしたら、そこに何が入っていたか、思い出すのはなかなか難しいはずです。記憶に残るのは、いろいろな情報が入っているものよりも、たったひとつの情報しかないものなのです。つまり、人の記憶に残るのは幕の内弁当より、カルビ弁当といえるのです。」(p110)

著者は、この手法をもちいながら、広告キャンペーンを企画してきた。
伝えたい情報を一点に集中させることで、目立ち、人の記憶に残るコミュニケーションを作ることができた。

わかりやすい言葉をくりかえし聞かされていると、人は、その気になりやすい。
政治の世界でも、「郵政民営化」、「政権交代」など同じ言葉を何度も聞かされているうちに、国民はその気にさせられてきたといえるだろう。

2011年4月22日金曜日

北品川 御殿山


原美術館


2011年4月21日木曜日

高井伸夫 3分間社長塾

2004 株式会社かんき出版

カップヌードル
日清食品の創業者である安藤百福氏は、チキンラーメンを売り出すためアメリカに視察にでかけたところ、あるバイヤーがサンプルのチキンラーメンを小さく割って、紙コップに入れてフォークで食べていたのを目にした。
最初から紙コップのような容器をつけて売れば、丼も要らないし、気軽にラーメンを食べられるのではないかと考えた氏は、帰国後、さっそくカップラーメンの開発を指示した。そうして誕生したのが、世界各国で食べられているカップヌードルである。

アサヒスーパードライ
長期低迷していたアサヒビールが、生まれ変わりを目指してキリンへの挑戦に立ち上がったとき、アサヒビールは社運をかけて、勝つための方法を、兵法および兵学に学んだ。兵法では、弱者が強者に勝つためには、4つの方法がある。①一点集中、②少数精鋭、③個別撃破、④奇襲戦法の4つである。
そこでアサヒは、まず一点に全力集中することにした。こうして経営資源を全力投球して生まれたのがアサヒスーパードライである。

ナンバーワンよりオンリーワン
ナンバーワン企業は、他社との際限のない競争によって体力を弱め、市場が縮小すれば他社といっしょに淘汰されてしまう可能性がある。いっぽう、オンリーワンは他社とおなじ土俵で争うのではなく、他社にまねのできない商品やサービスを開発して、自社だけの土俵で勝負する。自社だけの市場を作り出せれば、他社がどんな戦略を取ろうと左右されないのである。
ただ、米国産牛肉の輸入がストップしたとき、牛丼に特化していた吉野家は、苦戦を余儀なくされた。
そして、今回、ナンバーワンかつオンリーワンで絶対安全だと思われていた東京電力が苦境に陥っている。
なにが起こるかわからないものである。

2011年4月20日水曜日

伊東光晴 政権交代の政治経済学-期待と現実

2010 株式会社岩波書店

1927年生まれ

自公連立政権から民主党を中心とする政権に交代したことのメリットは高く評価されねばならない。
まず、自公長期政権と利益集団との癒着関係がもたらした社会のゆがみの是正、つぎに野党時代に貯えた人材と知識の顕在化である。
新しいダムは作らないという民主党の政策を著者は支持する。
ダムの建設は、それが必要なものかどうかとはべつに、莫大な利権を、その地域にもたらす。
土木建設業者と自民党の政治家との癒着を絶っただけでも政権交代の意味は大きい。

しかし、民主党政権が動き出すにつれて、自民党との違いを示すことができず、自民党化している。
普天間問題では、対米対等路線を打ち出すことはできなかった。
菅首相は、選挙中に消費税を上げるべきだと言った。菅首相の消費税引き上げ論が、たとえ正しかったとしても、選挙という場でそれが理解され、説得が成功することはない。大衆社会の庶民は、理性や知性の上に立った「市民」ではない。マスコミや感情によって大きくゆれるのである。
この点で、消費税引き上げを選挙で口にすることに反対した小沢一郎のほうが政治感覚ではるかに上である。

民主党と自民党を区別するものは、自民党の右翼的体質である。
自民党や、自民党を割ってでた群小新党は、憲法9条の改正および核武装の検討に、それができないことを知りつつ、前向きの姿勢を示している。
民主党が自民党に近づいたので、自民党は、さらに右傾化せざるをえなくなったのだろうか。

いかなる政権であっても、長期間政権の座にあるならば、腐敗を内蔵する。
政権交代の可能性があること自体が、腐敗を防止することになる。

2011年4月19日火曜日

池田信夫 希望を捨てる勇気

2009 ダイヤモンド社

1953年生まれ

著者の主張は、一般的とは言えないが、ひとつの見識である。

高度成長期は、だれにでもチャンスがあり、一生懸命働けば報われるという希望があったが、今は正社員という椅子にすわっている老人が、ずっとそれにしがみつき、そこからあぶれた若者は一生フリーターとして漂流しそうである。

日本が直面しているのは、循環的な不況ではなく、成長から停滞、そして衰退へという大きな変化である。
日本は、やがて、落ち着いた、しかし格差の固定した階級社会になるだろう。
明日は今日よりもよくなるという希望を捨てる勇気をもち、あきらめればそれもいいのかもしれない。
そのうち景気が良くなるかのような希望を持って、長期停滞が続くままにしておけば、そのようになるだろう。
いま日本に足りないのは希望ではなく、変えなければ未来がないという絶望ではないだろうか。

日本的経営の特徴とされてきた終身雇用、年功序列、企業別組合とは、戦時中の統制計画経済から始まったものである。
このような日本的経営が行き詰まっているのであれば、それを変えるしかない。
労働者は弱いという前提で、戦後の制度は作られているが、労働組合は強く、解雇は容易ではない。
経営者の役割は、利益をだして、会社を成長させることにあり、雇用を守ることではないはずである。それが、従業員を解雇しようとする経営者にたいして世間の目や裁判所が厳しくなって、うっかり解雇できなくなった。そのため、経営者は、新規の雇用に慎重にならざるをえなくなり、新卒を採用しないで非正社員に替えるようになった。
これが、若者が就職できない理由のひとつである。

経営者は、もっと容易に従業員を解雇できるようにし、そのかわり人材を流動化して、転職を容易にするべきである。
終身雇用、年功序列の慣習をやめ、ろくな仕事もしないで高給をとっている高齢者を企業からはやく出さなければならない。
すべての人にチャンスがあり、努力すれば報われるという希望を取り戻し、活気ある社会にしなければならない。

2011年4月16日土曜日

逢沢明 京大式ロジカルシンキング

2003 株式会社サンマーク出版

「議論に強くなりたい、説得力のある話し方ができるようになりたい、そのためには論理が必要である」と考える人は多い。
だが、それは相手が論理に理解を示してくれる場合である。
じっさいには、しばしば、相手は論理を理解できなかったり、論理を無視してかかってくる。このような人と議論するときには、噛んで含めるように説明し、何を議論しているのか、つねに明らかにしなければならない。
道理が通じない相手のばあい、ときには、相手の言うことを単にがまんして30分程度聞いてあげるという方法が効果的である。あいづちを打って聞いているうちに、相手は自分で自分の言葉に納得して、こちらを友達のように思い始めてくれたりすることもある。
決して強弁を曲げない相手であれば、聴衆などの第三者にたいしてアピールするとか、相手の議論の細部を攻めるとか、相手の知らなさそうな単語を言って相手の思考を停止させるというテクニックもある。
いろいろな論争術があるけれども、人は、論理で動くとは限らないので、人を動かすのは非常に難しい。
広い意味では、人は利害関係によって動くと思われるが、利害関係とは、単に経済的なものばかりではなく、感情的なものや、社会的なものも含まれる。
それならば、人を説得しようなどとめんどくさいことを試みるより、いっそのこと、人とつきあわない方が簡単だと思えてくる。

かって、京都学派では、たくさんの仲間を集め、徹底的に議論することによって、独創的な研究をすすめたそうである。
たがいの意見を戦わせた結果、より高いアイデアに到達できるとすれば、それは理想的であろう。
この点で、ブレーンストーミングという方法は、自由に意見を述べることを重視する。
しかし、その気になって自由に意見を述べ上司などを論破すると、恨まれて、後で仕返しされるということも現実にはよくあることではないだろうか。

2011年4月15日金曜日

2011年4月14日木曜日

渡邉美樹 「戦う組織」の作り方

2009 PHP研究所

1959年生まれ

著者は、1984年、居酒屋チェーンの「つぼ八」の高円寺北口店を出店することから始めて、いまでは東証1部上場、従業員4000人、売上高1100億円を超えるワタミの経営者となった。
事業内容も外食から始めて、介護、宅配弁当、農業へと広がった。

2009年には、著者は社長を退いて、会長になるつもりである。
まだ第一線で働ける年齢なのに会長に退くのは、ワタミを創業者である著者がいなくなっても存続できる会社にするためである。
ワタミでは、農業を21世紀の主役の事業に据えようと力を注いでいる。日本の農業は、高齢化が進んでおり、その担い手は減り続けている。これからは、株式会社が農業へ参入することによって、農業の産業化を進めるしかないと考えている。

ワタミグループのスローガンは、「地球上で一番たくさんのありがとうを集めるグループになろう」である。この理念で、介護事業や農業を展開していこうとしている。

著者は、学校法人や医療法人の経営にも携わっており、今後の社会のモデルとなるような学校や病院を作りたいと思っている。

著者の元気の秘密は夢を持ち続けていることであり、みんなを幸せにするために、もっと何かできるはずだと思いこんでいるためである。

2011年4月13日水曜日

矢次一夫 東條英機とその時代

昭和59年 三天書房

1899~1983

東條英機は明治17年(1884)に、軍人の子供として生まれた。
少年時代は、喧嘩っ早く、負けず嫌いで、自信が強く、「喧嘩屋東條」とあだ名をつけられた。長ずるに従って、「カミソリ東條」と言われるように、頭の回転は早く、人に対する愛憎好悪が激しく、冗談を理解せず、人から畏れられる人物となった。

東條には、派閥といったものはなく、政治家というより、官僚将校というのがふさわしい。ただ、苛烈酷博な憲兵活動などの例があり、首相時代は、彼に逆らうのは容易ではなかった。

昭和16年、近衛文麿が、日米交渉に行き詰まり内閣を投げ出した後、重臣たちは、後継首相に東條を推した。強硬な陸軍を押さえられるのは、東條しかなく、「日米不戦」の原点に戻って対米交渉を行うことが期待された。
ところが、アメリカ側は、東條内閣の成立を、日本がいよいよ対米戦争をするつもりだと見なした。
このころ、アメリカとの戦争は切迫しており、「交渉」といっても、互いにだましあいながら、準備の時間を稼ぐという感があった。

日本では、軍部が主導権を握ったままで、政治家と官僚のアドバイスを利用していたにすぎなかった。
対米交渉についても譲歩する柔軟性がなく、むしろ一貫して硬直した姿勢で押し通したので、妥協に至ることができなかた。

真珠湾攻撃がアメリカによって仕掛けられた罠であったという説がある。
日本と違ってアメリカでは、軍人ではなく政治家が主導権を握っており、戦争をするためには正当な理由がなければならない。
ルーズベルトやハルは、まず、何とかして、日本に先に発砲させようとして、あの手この手を使っていたという見方がある。
政治力においては、ルーズベルトは近衛や東條より、はるかに上であった。真珠湾攻撃によってアメリカ人の愛国心は沸き立った。

昭和19年、サイパン島が陥落すると、重臣たちは東條内閣打倒に動き東條内閣は退陣した。

2011年4月5日火曜日

東急綱島


綱島温泉

飯田家長屋門

綱島公園


2011年4月4日月曜日

河谷史夫 記者風伝

2009 朝日新聞出版

1945年生まれ

「新聞記者のなりそこないが小説家になり、小説家のなりそこないが新聞記者になるという説がある。」(p51)
「新聞記者には、『堀り屋』と『書き屋』がある。取材対象に迫り、一体になってまでも材料を取ってくるのがいなければどだい話にならないが、これはたいてい文章を不得手とする。記事表現をするためには『書き屋』がいなければならない。」(p104)
「書かない大記者」というのがいて、「書かない」という約束を守ってくれるという信用があったので、政治家がいろいろなことを打ち明けてくれるので、いよいよ書けなくなったということである。

新聞記者は、どのような人がなるかというと、たいていは、頭がよく文章がうまい人が新聞社に入り、「新聞記者」になるのであって、はじめから「新聞記者」がいるわけではない。
記者が新聞社の花形であるのは、大学における教授、病院における医師のようなものではないだろうか。
文章がうまいので、井上靖や司馬遼太郎のように、小説家などになって大成した人もいる。
著者は、「戦後のある時期、新聞が輝き、新聞記者が輝いていた時代がたしかにあったのだ」と言う。
戦時中は、抑圧され統制されて、一億一心とか、玉砕とか、醜敵撃滅とかの言葉を使って文章を書き綴り、読者に訴えて来たが、戦後は自由にものが言えるようになった。
言いたくても言えなかったのだとばかり、一度にはきだした。
しかし、新聞記者の多くは、戦時中の記事に責任を取ることはなく、手のひらをかえしたので、批判の声があったのは当然であろう。

「所詮、新聞記者といふやつは筆先の技巧一つで黒を白とさへいひくるめるペンの職人でしかないといふ印象を与へはしないだろうか」と書く新聞人もあった。
この点では、今も、あまり変わりはなさそうである。
新聞記者は、新聞社という大組織のなかで、個人としての責任は負うことなく、新聞が売れるような記事、言いかえれば、読者が喜びそうな記事を書いてきたという面はあるだろう。

2011年3月30日水曜日

河谷史夫 酒と本があれば、人生なんとかやっていける

2010 株式会社彩流社企画

1945年生まれ 2010年、朝日新聞退社

「警察や検察といった捜査当局を取材対象とするのは古来の方法である。新聞に入ると、まず『警察回り』が記者修行の第一歩だし、事件事故、何かにつけて、『サツは何と言ってる?』が口癖のデスクは枚挙にいとまがないのが実態だ。」(p74)

「夜討ち朝駆けは、これも古来の戦法で、昼間は会えない、会えても密談はしにくい取材相手を早朝深夜に襲って問答することだが、ほとんどは嫌がられ、空振りが多く、労多くして益は少ない。少ないけれど、これをしなければ前に進むことができない。」(p74)

「新聞も昔は大雑把なものだった。
どこかの記者になったら、社長から名刺の束をぽんと渡されて『これで食え』と言われたという伝説がある。」(p84)

「酒は呑むがゴルフはしない。するつもりも金輪際ない。ひとさまの趣味をあれこれあげつらうことは余計なお世話と承知しているが、新聞社でもどこかの支局長をやったくらいですっかりゴルフ通になって戻ってくるのがいるから笑ってしまう。」(p224)

「事件は突然にくる。『全員呼び出しっ』。とたんに、それまでいくらだらけきっていても、編集局は一瞬に張りつめ、緊張は締め切り時間まで続く。」(p257)

「新聞社に独特の編集と営業の対立、編集局内の派閥争い、入社年次による軋轢、同期同士の競争、先輩の後輩へのひそかな恐れ、後輩の先輩に対するひそかな侮り、記者の功名心、それと裏腹の敵愾心、目立ちたがり、そういった渦の中に何故記者たちはいるのか。」(p260)

「何が大変といって、警視庁にしろ地検特捜部にしろ、相手の手にすべてのカードがあるということだ。思し召しのごとく示してくれるカードの中身をかいま見て、事件全体像を推し量らなければならない。」(p279)

「ますます盛んなそうだが、老いも若きも『百名山』にうつつを抜かし、生きているうちに全部登りたいなどど気味の悪いことを言うのがいる。・・・他人様の趣味に文句をつける趣味はないけれど、登ってもどうせ降りてくるんだろう。」(p316)

新聞記者は、四六時中休むひまなく、事件や情報を求めて、目をギロギロさせ、耳をそばだてて、人が隠そうとすることを暴きたてようとしている。なにがそうさせるのだろうか?
「新聞」という語の通り、新しいことを誰よりも先に知って自慢したいという心理があるのだろうか。
著者がゴルフや山登りが何がおもしろいのかわからないのと同じように、私は新聞記者のこともよくわからない。

2011年3月28日月曜日

表三郎 答えが見つかるまで考え抜く技術

2003 サンマーク出版

1940年生まれ

著者は、大阪市立大学の学生運動で勇名をとどろかせた。
その後、妻子を養う必要に迫られ、予備校講師となるが、たちまち人気講師となる。
そのカリスマ性から、全国に教え子を多数輩出している。

著者は、夜は9時に寝て、夜中の1時に起きる。それから朝まで仕事をしたり研究したりするという生活を送っている。そのかわり、ちょっとしたスキマ時間を利用して、ちょこちょこ頭の休み時間を取るように心がけている。
脳に気持ちよく働いてもらいたいなら、5分とか10分の睡眠を見つけることである。
起きたまま、脳をリラックスさせることも大切で、その場所にいるときは絶対になにも考えないという場所を見つけることも必要である。

1969年、全共闘運動はそろそろ終焉を迎えようとしていた。
30歳近くになる大学院卒の全共闘リーダーなど雇ってくれる会社などあるはずもなかった。
著者は、先輩のコネで、予備校の英語講師の話にとびついた。
内心、自信はなかったが、「だいじょうぶです。私の得意分野です」と胸を張ってみせたものである。
このときハッタリをきかせたおかげて、ピンチをチャンスに変えることができたのである。
逆にピンチのときに弱気になってしまえば、チャンスと思えずに見過ごしてしまう。
こうして著者の予備校講師としての生活が始まった。
予備校の英語講師でメシを食っていくからには、その役柄を徹底的に究めていこう、その役をみごとに演じきってみようと、真剣に取り組んだ。
その甲斐あって、予備校の英語講師という役は、当たり役で、いまも演じつづけている。

人には本来、さまざまな役柄がある。それは役割という言葉にも置き換えられる。
自分の役割はこれだと、一つの役柄に限定してしまうのはよくない。
その思いこみが、本来あったはずの多くの可能性を奪うことになってしまう。
多くの役を演じることで、人間として大きな幅ができてくる。
「自己実現」とは、「他人にはない固有の自己を実現すること」ではなく、真の意味での自己実現は、自己表現である。
自己表現だから「演技」も必要になってくる。
人生を振り返ってみると、じつにさまざまな役を演じてきたことに気がつく。
これからも、演じたい役を演じ続けるのもいいだろうし、思いがけない役がまわってきたときにも、おじけることなく、楽しく、真剣に演じてみるつもりである。

2011年3月26日土曜日

中山治 「格差突破力」をつける方法

2007 株式会社洋泉社

1947年生まれ

高度経済成長期には、まじめに働いていさえすれば、大多数の人の生活がどんどん豊かになっていった。しかし、これからの時代は油断しているといつなんどき下流に突き落とされるかわからない。
「格差突破力」を身につけることが不可欠である。

われわれ普通の人間は、ほんの一握りの英雄や異能の人の生き方に幻想をもつのではなく、もっと普通の人にふさわしい生き方に回帰したほうがよいのではないか。
多くの普通の人々は、平凡でよいから充実した幸せな人生を歩みたいと願っている。
「充実」とは、自分が夢中になれる仕事や趣味を持つことである。
「幸せ」とは、争いが少なく、愛が多い生活のことである。
そのためには、名誉や地位、お金の多い少ないは関係がない。無名で偉くもなく、名誉もなく、金持ちでもないけれど、それなりに豊かな生活を送ることができた中間層の人々の中にこそ、充実した幸せな人生を送ることができた人々が多いのである。

格差社会を勝ち抜いて、中間層の暮らしを確保するためには、時代のトレンドを読みながら自分の生き方を定めていかなければならない。
では、近未来の日本のトレンドは、どのようなものか。
本書の予測は、悲観的な予測であり、日本の衰退は避けられないという立場に立っている。
このような時代には、大きすぎる野心は危険である。
地道に足元を固めて、マイペースで地歩を築いていかねばならない。
具体的には、自分の向き不向きを見極めて、自分の向いている分野を発見できたら、それを食えるスキルにまて高めるよう地道に努力することである。
自分の向き不向きを見極めることは、簡単なようで意外に難しい。
向き不向きが見えない、やることがわからない、夢はあるけれど、とても実現できそうにない。このような人は、とりあえずビジネスパーソンを目指すべきである。
契約社員でも派遣社員でもいいから企業にもぐりこんで、そこで努力して実績を上げ、人脈を築いて正社員を目指すのである。
とにかく、企業や役所の組織にもぐりこんで、そこで仕事を覚え、人脈を作り、ひたすらお金をためてそれを安全確実に増やすことを考える。

いまどき、株で儲けたという話も聞かず、不動産価格は下がり、金利はつかない。もうけ話は、詐欺だと思って間違いない。
したがって、中間層にとどまるためには、なるべく大きな組織に属し、がんばって少しでも給料を増やし、できるだけ長く組織に留まるのが合理的である。

それでも、日本の近未来は、いくらがんばっても中流の暮らしさえ維持できないという可能性は捨てきれない。
このようなときは家族の誰かが繁栄している外国で働き、外貨の仕送りで家計を助けるという選択肢も現実味を帯びてくる。

2011年3月22日火曜日

三土修平 頭を冷やすための靖国論

2007 株式会社筑摩書房

1949年生まれ

靖国神社は、1869年に戊辰戦争での官軍側の戦死者を祀る東京招魂社として発足した。他の神社と異なり、陸軍省と海軍省の管轄下にあり、戦死者の名前が特定されると、個々の戦死者の霊が靖国神社に招かれ、さらに合祀祭という儀式をへることによって、すでに祀られていた神霊に合体して正式に祭神となり、とこしえに国を護るというのが「靖国信仰」である。
合祀は、天皇からの恩恵として下賜される栄誉とされていて、遺族が信仰上の理由からそれを断ることは、最初から想定されていなかった。

靖国神社は、伊勢神宮とともに「国家神道」と言われている国家のための宗教の要であった。
このように、戦前の軍国主義を精神的に支えてきた靖国神社は、日本の敗戦によって廃止されてもしかたがなかったはずである。
ところが、占領軍は、政治と宗教を分離し、宗教活動は自由にすることを原則とした。
そのため、靖国神社は、「宗教だから」という理由で、一宗教法人として残ることを許されたのである。
「民間の」宗教法人としての靖国神社は、そのためにかえって安全に旧来の姿を保つことができ、占領時代をやりすごすことができた。

占領が終わると、靖国神社の関係者は、国のために戦死した者を祀っているのだから、当然、政府が責任を持つべきだと言い出した。しかし、靖国神社を公的な特殊法人にしようとする試みは、けっきょく失敗する。
つぎに首相が靖国神社を参拝するべきだということになり、歴代の自民党の首相が靖国神社を参拝しようとして、中国などアジア諸国の反発を買って取りやめにしたりすることがあった。

ところで、現在の日本政府の公式見解によると、日本で大東亜戦争と呼ばれている戦争は、アジア諸国に対する侵略戦争であるので、深く反省してお詫びするというものである。これは、アジア諸国での共通の認識となっている。
これに対して、靖国神社では、一宗教法人として自由な立場であるために、戦前の価値観がそのまま温存されている。
このような矛盾があるうえに、憲法では政治と宗教は分離されていて、国民もそれを納得している。
そのため、靖国神社を公的な施設にしようとする試みは、うまくいかないのである。

戦後ながいあいだ影響力を持ってきた戦没者の遺族も社会から退場しつつあり、今後の靖国神社は、ふつうの神社としての道を歩むことになるだろう。

2011年3月18日金曜日

石川真澄・山口二郎 戦後政治史 第三版

2010 株式会社岩波書店

1945年、日本政府はポツダム宣言の受諾を決め、無条件降伏した。
降伏は、「国体の護持」だけを条件として天皇の決断によって決められた。
このとき、議会は、政府・軍部に全面的に協力する「翼賛議会」と呼ばれる形ばかりのものであった。

連合国による日本の統治は、GHQが日本政府を通して間接的に統治する形をとった。GHQは、日本軍国主義を徹底的に破壊するため、戦前の指導者を公職追放し、民主化のための施策を押し進め、財閥解体や農地解放など経済構造の改革を行った。
日本の民主化を目的とする占領政策は、憲法改正で一応完成する。
新憲法は、GHQ案を、ほぼそのまま受け入れたもので、国民主権であるが、天皇を「象徴」として残し、戦争と軍備を放棄した。

戦後初の総選挙は、46年4月に行われた。
戦前からの議員が公職追放されたため、新人が8割を占めたにもかかわらず、戦前の支配政党の系譜にある人が多数当選した。
社会・共産党系の人が100人近く当選し、その後、半世紀近く続く「保守対革新」という枠組みが形作られた。

48年から6年続いた吉田内閣は、経済の復興に力をそそぎ、サンフランシスコ講和条約を締結した。

次の鳩山内閣は、憲法を改正して自衛軍を創設することをめざした。
分裂していた社会党は統一して「平和憲法擁護」をスローガンにして、これに対抗した。いっぽう自由党と日本民主党は、合同して自民党を結成した。
鳩山内閣は、日ソ国交回復、国連加盟をなしとげた。

追放解除から復帰した岸信介は、鳩山と同じく、憲法九条を改めて日本が相応の軍備をもつべきだという考えであった。
岸内閣は、日米安保条約を、日本にとって対等の内容にするための改定をしようとしたが、社会党などの反対勢力は、戦前の軍事国家に復帰する道につながっているのではないかと疑って猛反対した。条約の批准は、強行採決によって可決され、全国的なストが行われて、全学連のデモ隊が国会構内に突入した。

後を継いだ池田勇人は、はじめから「低姿勢」で、「寛容と忍耐」を掲げ、10年で所得を2倍にするという所得倍増計画を立てた。国民の目は、おのずと、経済のほうに向けられることになったが、経済成長率は十分高く、目標に掲げなくても、達成できるものであった。

池田が、ガンのため辞任し、佐藤栄作があとを継いだ。7年以上続いた佐藤内閣のなかで、沖縄が本土に復帰することになり、70年には万博が開催された。

佐藤のあとを田中角栄と福田赳夫が争い、田中が戦後最年少の首相となった。田中は、「庶民宰相」「今太閤」などという呼び名で、国民の期待も大きく、その著書「日本列島改造論」は、ベストセラーにもなった。
田中は、日中国交回復を実現し、実行力を示した。
田中は、「狂乱物価」「石油ショック」と呼ばれた経済問題と金権政治に国民が幻滅したことによって、74年に辞任した。

後継争いには、大平正芳、福田赳夫、三木武夫の3人が名乗りをあげたが、「椎名裁定」の結果、三木が首相となった。「ロッキード事件」が発覚し、田中角栄が逮捕された。田中派は怨念を三木に向け、「三木降ろし」に動いた。

76年には、福田が首相になったが、78年には田中派の支援を受けた大平が首相になった。

大平が安定政権をめざした79年の解散・総選挙では、自民党は逆に大敗した。
大平が、「一般消費税」の導入に熱意を示したのが原因であると見られている。
この選挙の後、自民党では、「40日抗争」と言われる熾烈な権力闘争が燃え上がった。80年には、内閣不信任案が可決され、衆参同日選挙となったが、大平は、心筋梗塞のため、その直前に、死去した。

大平のあと、党内派閥抗争に疲れた自民党が選んだのが鈴木善幸である。鈴木は、大きなミスがあったわけではないが、82年秋に自ら辞任した。

鈴木のあとは、やはり田中派の支持を得た中曽根康弘であった。
中曽根は、就任当初、日本列島を浮沈空母にするという発言などで支持率を落としたが、その後は、平和と軍縮、行政改革、教育改革などを強調するようになり、支持率を回復させた。
その政治手法は、「審議会政治」と名付けられた。中曽根は87年まで首相を務めた。

中曽根のあとをついだのが、「経世会」をつくって田中派から独立した竹下登である。
竹下内閣は、「消費税」を創設したが、「リクルート事件」に絡んで退陣した。

次に選ばれたのが、竹下派の強い支持を受けた宇野宗佑である。宇野は、醜聞と選挙敗北の責任をとって、在職わずか86日で退陣した。

宇野のあとは、竹下派の推した海部俊樹が首相となる。海部内閣のとき、湾岸戦争が発生し、日本の「国際貢献」が問題となった。

91年には、やはり竹下派の支持を受けた宮沢喜一が首相になった。
宮沢内閣のとき、自衛隊が国連PKOのためカンボジアに派遣された。
バブル経済が崩壊し、株価や地価が下落したため、景気対策が打たれたが、不良債権問題に対する危機感は、まだ希薄であった。
92年には「佐川急便事件」が竹下派を直撃し、羽田派と小渕派に分裂した。
93年には金丸信が逮捕され、内閣不信任案が可決された。

総選挙では、社会党が大きく議席を減らし、自民党はあまり変わらず、新生党、日本新党、新党さきがけが議席をのばした。
自民党から出た「新生党」、社会、公明、民社、社民連などが、非自民・非共産の連立政権樹立をめざし、日本新党の細川護煕を首相とする内閣が誕生した。このとき、自民党は55年以来、はじめて野党となった。
細川は、国民の人気は高かったが、突然消費税を廃止して「国民福祉税」を新設することを表明して撤回するなど、背後にいる大蔵省や小沢一郎の力の強さを印象づけた。細川は、94年に金銭疑惑が出てきたことを理由に辞任した。

4月には、連立政権は、新生党の羽田孜を首相にするが、連立から離脱した社会党と、新党さきがけ、自民党によって内閣総辞職に追い込まれた。

6月には、意表を突いて、自民、社会、さきがけ三党連立で、しかも社会党の村山富市を首相とする内閣ができた。
村山は、日米安保体制の堅持、自衛隊の合憲、日の丸・君が代の容認など、これまでの社会党の主張を大きく転換する見解を表明した。いっぽう、日本の戦争責任を認め、従軍慰安婦へ見舞金を支給し、水俣病の未認定患者を救済するなど過去の政権が積み残した負の遺産を精算することにも取り組んだ。
12月には、多くの野党議員が合同して「新進党」が結成された。

95年の参議院選挙では社会党は大敗し、村山も意欲を失って、96年1月退陣し、自民党の橋本龍太郎にかわった。
橋本は、96年9月に衆議院を解散し、消費税の3%から5%へのアップ、それと引き替えに抜本的な行政改革を行うことを掲げて総選挙が行われた。自民党は議席を確保したが、社民党とさきがけは大幅に議席を減らした。
橋本は、中央省庁の再編成、内閣機能の強化、独立行政法人制度の導入などの行政改革、および地方分権改革を行った。さらに、国民負担を増やす形での財政や社会保障改革が始まった。
97年には、北海道拓殖銀行や山一証券が破綻するなど、日本経済にとって衝撃的な年となった。この危機にたいして、橋本政権は経済対策をとるのに遅れ、国民の不信を招き、98年参議院選挙で自民党は敗北し、橋本は退陣した。

98年、自民党総裁に選ばれた小渕恵三は地味な性格で当初は世論の期待も小さかった。国会運営でも大きな困難に直面した自民党は、公明党との提携に動き、公明党の地域振興券の配布という景気対策を受け入れた。
自民党は、伝統的な支持基盤が崩れていくなかで、公明党の組織票を頼り、公明党は与党としての政策実現党を志向した。

2000年、小渕が脳梗塞のため死去し、森喜朗が後継となったが、自民党の一部指導者によって密室で決められたと批判された。森は6月に衆議院を解散し、総選挙を実施した。自民党は議席を大きく減らしたが、公明党との連立で政権を維持することは容易であった。森は、自民党内での「加藤の乱」などの批判や失言によって内閣支持率が史上最低を記録するなど政権維持が困難となり、2001年、退陣する。

自民党総裁に選ばれた小泉純一郎は、自民党に受け継がれている利権政治と官僚の二つを標的として、構造改革を掲げた。閣僚人事でも、派閥の均衡や当選回数を無視し、若手や民間人の起用を進めた。郵政事業民営化、道路特定財源の見直しなど新しい課題を次々と打ち出して、国民の支持を得た。
小泉人気の源泉は、自民党のなかから自民党を否定したことである。その結果、地方選出議員や業界団体の支援を受けて当選した議員は支持者との板挟みになった。そこで、道路公団や郵政民営化など、改革の具体化過程においては、改革派と抵抗勢力との駆け引きが展開された。
小泉内閣のもとで、不景気は深刻化し、金融機関の破綻も続いたが、小泉は景気刺激策への転換をかたくなに拒んだ。
外交・安全保障政策の面では、自衛隊をインド洋やイラクに派遣し、日米の軍事的緊密化を一層加速させた。
2003年には、小泉は総裁に再選され、衆議院を解散して総選挙を行った。
この選挙で、自民党は引き続き政権を維持した。他方、自由党と合併した民主党は、野党としては戦後最大の勢力となった。
小泉は、世論の高い支持を背景に経済財政諮問会議や規制改革会議などを活用して構造改革を進めた。
2005年、小泉は、かねて持論であった郵政民政化を通常国会の最大のテーマとし、衆議院では可決されたが、参議院では自民党からも反対が出て、否決された。
小泉は、ただちに衆議院を解散して、総選挙を断行した。この選挙では、自民党改革派対抵抗勢力という構図がメディアで定着し、野党の存在は霞んでしまった。自民党が圧勝し、小泉の威光は揺るぎないものとなった。

2006年の自民党総裁選には、小泉は勇退し、安倍晋三が後継となった。
安倍は、憲法改正に強い意欲を示し、「戦後レジームからの脱却」を唱え、教育基本法の改正、憲法改正のための国民投票法の制定を実現した。
閣僚の政治資金収支報告をめぐる虚偽記載が続出し、政権を揺さぶった。
「消えた年金記録」問題は、国民の不満を高め、内閣支持率は低下した。
2007年の参議院選挙では、小沢一郎の率いる民主党は、「国民の生活が第一」というスローガンを掲げて大勝し、自民党は大敗した。この結果、民主党は参議院で第一党になり、自民・公明の与党は過半数を失った。

安倍は退陣し、福田康夫が後継に選ばれた。与党が参議院で過半数を失ったことにより、政権運営は多くの困難に直面することとなった。インド洋における自衛隊の給油活動の継続が不可能になり、揮発油税の暫定税率の根拠法は衆議院の再議決によって成立した。

2008年、政権運営に行き詰まりを感じた福田は退陣し、麻生太郎が後継に選ばれた。
麻生は、政権発足早々の早い時期に解散総選挙を考えていたが、9月以降の世界的な金融危機への緊急対策を行わなければならないことなどを理由にして解散を先延ばしにした。
2009年、小沢一郎の政治資金をめぐって公設秘書が逮捕され、鳩山由紀夫が民主党の代表に選ばれた。

7月に衆議院解散、8月に総選挙が行われ、民主党が308議席を獲得して、戦後の日本では初めて、選挙による明確な政権交代が起こった。
この選挙戦では、自民党政権の継続か、民主党を中心とした政権への交代かが最大の争点となった。
9月、民主党、社民党、国民新党の連立による鳩山内閣が誕生した。新政権は政治主導を掲げ、政策決定や政権運営において官僚を排除する方針を明確にした。
政策面では、マニュフェストで打ち出された子ども手当の創設、高校授業料の無償化、農家に対する戸別所得補償などが実現した。
国家戦略、行政刷新の両大臣が新設され、事業仕分けが行われた。
いっぽうで、高速道路の無料化はきわめて限定的にしか実施されず、マニュフェストが十分な詰めを欠いていたことも明らかになった。
鳩山内閣は、鳩山や小沢の政治資金をめぐる疑惑によって、支持率は低下していった。アメリカ軍の沖縄普天間基地の移設をめぐって、鳩山の指導力の欠如が浮き彫りになり、鳩山は、2010年5月末までに決着することで問題を先送りにした。
国会では、野党側が、鳩山、小沢の資金疑惑を追求し、自民党政権時代のスキャンダルをめぐる攻防がそのまま裏返しになる展開となった。
普天間基地移設の期限が近づくにつれて、鳩山内閣は苦境に陥り、支持率も低下の一途をたどった。鳩山は、普天間移設についての日米合意を結び、これに反対する社民党は連立を離脱した。

6月、政権運営に行き詰まった鳩山は、退陣し、同時に小沢にも幹事長を辞任するよう求めた。菅直人が後継首相に選ばれ、民主党および内閣支持率は急回復した。
首相になった菅直人は、財政健全化と社会保障の拡充を両立させるために消費税率の引き上げを含む税制改革が必要であると表明した。
菅の増税路線は、野党から攻撃をうけ、7月の参議院選挙で与党は過半数を失った。この結果、ふたたび衆参のねじれ状態が生じた。
連立政権は、衆議院で3分の2の多数をもっておらず、参議院で否決された法案を再議決により成立させることはできない。
その意味で、菅内閣は厳しい政策運営を余儀なくされることとなった。
参議院選の敗北の後、民主党の代表選挙が行われ、マニュフェストの修正と現実的な政権運営を強調した菅が小沢を破って勝利した。
菅は、代表選は乗り切ったが、財政難とねじれ国会のもとで、多くの難問に直面することとなっている。

2011年3月1日火曜日

2011年2月25日金曜日

小松和彦 神になった人びと

2001 株式会社淡交社

1947年生まれ

この世に生を受けた者を死後に「神」として祀り上げることは、古くからおこなわれている。
古い時代には「神」として祀られるのは特別の人生を送った人だけであった。
その条件とは、死後に「祟る」かどうかによって決定されていた。
柳田国男によれば、「遺念余執といふものが、死後に於いてもなほ想像せされ、従ってしばしばタタリと称する方式を以て、怒や喜の情を表示し得た人が、このあらたかな神として祀られることになるのであった」。

ところが、時代が後になると、立派な業績を残し天寿を全うして死んだような人でも、「神」として祀り上げることがおこなわれるようになった。
前者を「祟り神」系の「人神」、後者を「顕彰神」系の「人神」と呼ぶことができる。
この二つの「人神」は対極にあるようにみえるが、「祟り神」系の神も、時がたてば「顕彰神」系の神に変化するのが普通である。
祟りが終息したとみなされるようになると、祭神は信者たちの守護神へと変化し、それに伴って祟り神も英雄・偉人となるのである。

日本人の「たましい」の観念からいえば、個人の「たましい」は、何十年か経つと、「先祖」という「集合的なたましい」のなかに組み込まれてしまう。
これを乗り越えて個人の「たましい」を永続させようとすれば、神となって「社」に祀られ、末ながく、祀り続けよう、記憶し続けようと思う人たちを必要とする。
このように、「社」には、記念・記憶・支配という機能がある。そのため、自分から進んで、死後、「神」として祀られたいと思う権力者がでてきた。
豊臣秀吉を祀った豊国神社、徳川家康を祀った東照宮などである。
「顕彰神」系の神社は、とりわけ明治期には、政府が人心を支配するために、さかんに創建された。そのさきがけが、楠木正成を祀った湊川神社である。
これに対して、政争に敗れた側、あるいは民衆の側からも「顕彰神」型の神社が積極的に創りだされた。西郷隆盛を祀った南洲神社などがある。

以上のように、人が「神」になるかどうかは、その人自身ではなく、後世の人びとが祀ろうとするかどうかにかかっている。
「人を神に祀る」ことは、現在でも、まったくなくなってしまったわけではない。
ちなみに、東急東横線大倉山駅からほど近い丘の上に、「東横神社」という神社がある。東急電鉄の創始者である五島慶太が同社の発展に貢献した功労者の霊を慰めるために造営し、伊勢神宮より本体を遷座したものだという。
毎年慰霊祭が行われており、昭和34年からは五島慶太も祀られている。
神社は現在でも東急の所有であり、関係者以外の参拝はできない。

2011年2月23日水曜日

子安宣邦 本居宣長とは誰か

2005 株式会社平凡社

1933年生まれ

本居宣長は、江戸中期の国学者で、三十年以上かけて大著「古事記伝」を完成させた。
戦前の小学校では、国語読本に宣長とその師賀茂真淵の出会いの物語「松坂の一夜」という文章がのせられていた。
このこともあって、戦前・戦中の日本人には、「敷島のやまと心を人問はば朝日ににほふ山ざくら花」という歌とともに、本居宣長は、広く知られ記憶されていった。

賀茂真淵は、万葉集を研究していたが、漢字を仮名として表記している言葉こそが、日本の古語やまとことばであり、漢字はあくまで借り字であると主張した。
真淵は、「古事記」などを正しく解釈するためには、古の心を理解しなければならない、そのためには漢ごころを除き去らねばならないとした。
宣長の古事記からの「やまとことば」の訓み出しも同じ考え方ですすめられた。
宣長にとって、「古事記」の漢文をよむとは、その漢文を通して、古代に話されていた古言やまと言葉を訓みだすことであった。
漢字とは、日本がやむなく受容した外国の文字であり、漢字には漢の国の異質な他者性が刻印されている、そのため漢字で書かれている「古事記」は、「古語のまま」に訓まれ、解されなければならないとした。
本居宣長のような国学者は、漢字で書かれた儒教や仏教のような外国の文化が日本にもたらされる前に、「ほんとうの日本」の文化があったはずだという考え方を持っていた。

宣長の神についての考え方は、多神教的でもあるが、天照大御神の生まれた皇国日本の絶対化という点では、一神教的でもある。いずれにしても、宣長は、「かみ」は人間の理解を超えているとしている。

宣長は、仏教を排したので、死後の世界に極楽とか地獄とかの区別があるとは考えなかった。死ねば、善人だろうが悪人だろうが、皆よみの国へ行くだけであるという。

宣長には有名な「遺言書」というものがあり、その中で、葬儀や墓について詳細に指示している。山室山に墓地を定め、別にある本居家の菩提寺には空の棺を送るように指示している。
実際には、いったん菩提寺で仏教による葬式が行われた後に、山室山に葬られている。遺言通りにはいかなかったのは、奉行所の指示によるものと思われる。
山室山の墓所は、まるい土の塚に山桜が植えられたものである。
墓所を定めたときに、宣長はつぎの歌を詠んだ。
「山室に千年の春のやどしめて風にしられぬ花をこそ見め」
「今よりははかなき身とはなげかじよ千代のすみかをもとめえつれば」

2011年2月22日火曜日

鎌田東二 神と仏の出逢う国

2009 株式会社角川学芸出版

1951年生まれ

著者は、40年以上にわたって、国内外の聖地を参拝して回っている。
著者は、日本文化の主流は「神仏習合」だが、それが成立する基盤として、さらに「神神習合」があったと言う。
「神道」という語は、「日本書紀」において初めてあらわれ、「仏法」に対置するものとして使われている。したがって、この時代には、すでに共同体ないし国家の伝統的基幹宗教文化として生活習慣化していたと考えられている。
神道は、「カミ」と呼ばれてきた聖なる存在に対する畏怖・畏敬の念に基づく祈りと祭りの信仰体系であり、生活体系である。
神道は、日本の風土のなかで自然発生的に生まれ、外来思想や外来文化の影響を受けながら形成され、洗練されてきた。

6世紀には、仏教が伝来し、蘇我氏と物部氏が争ったが、仏教は受け入れられ定着していく。
聖徳太子は、日本を仏教精神に基づく中央集権的な統一平和国家にしようとした。
この路線は、その後も長く続き、仏教と儒教と神道の三つは、相互に影響しあいながら共存し、今日にいたっている。

明治の初めには、神仏分離令によって神社は神祇官に所属することになるが、ほどなく神祇官は廃止された。
新政府の宗教政策は、新たな国家再編を試行錯誤しながら進められたため、一貫したポリシーはなく、目まぐるしく変わっていった。
平田派の国学者や神主は、日本は神道の国になると夢見ていたが、文明開化のなかで、かえって信教の自由が進み、時代遅れになった平田派は、どんどん政府から出されていった。
明治政府は、西欧列強に対抗するため、富国強兵政策を強力に進めるとともに、天皇を神格化し、明治憲法では、天皇は神聖にして侵すべからずと定められた。
古代においても、天皇をこれほどまでに神格化したことはなかった。
明治の指導者は、日本という国家を精神的に統合し強力に支えていくためには、八百万の神を祀る神社神道を中核にするのではだめで、天皇を中心にしなければならないと考えたのである。
「国家神道」については、神道が国教化されたというイメージをもつ人が多いが、正確には、国家が管理しやすく、統制しやすいように骨抜きにされた神社体制であった。

著者によれば、昭和20年の敗戦後、神仏分離の方向性は一度終わり、将来は新神仏習合ないし「神仏共働」の時代へと進んでいくという。
以上のように、本書では、宗教的な立場から神仏習合を論じている。
いっぽう、俗っぽく見れば、多くの日本人は昔から功利的かつ享楽的で、御利益がありさえすれば、神でも仏でも、かまわず信心してきたという面もあるのではないだろうか。

2011年2月7日月曜日

2011年2月6日日曜日

武光誠 知識ゼロからの神道入門

2006 株式会社幻冬社

1950年生まれ

日本人にとって神道はなじみ深いのだが、神道とは何かを語ることは難しい。
古代人の懐いていた死者や自然にたいする畏れの感情が、そもそもの起源だと思われる。
日本には、「八百万の神」と呼ばれるほど多くの神様があり、その起源もさまざまである。祖先を祀る神社には、伊勢神宮、出雲大社、春日大社などがある。自然や山にたいする崇拝に由来するのが、熊野神社や山岳信仰である。強い恨みをもって死んだ人は怨霊となり、神となる。この代表格が、菅原道真を祀った天満宮である。
日本のいたるところにある八幡神社は、もともと海の神を祀った宇佐八幡宮に由来する。稲荷信仰は、京都の伏見稲荷大社に起源がある。

6世紀に仏教が伝来すると、人々は、仏と神を同等に信仰するようになり、その垣根は曖昧になって、神仏習合となる。さらに仏教僧侶が考え出したのが、「本地垂迹説」で、仏は神の姿となって生まれかわるというのである。ここにおいて、絶対的な仏が、神となって生まれ変わるというかたちで、神は仏教の体系のなかに組み入れられ、神は仏に従属する位置に置かれたのである。

江戸時代の17世紀末になると、「国学」が起こり、仏教や儒教などの外来文化が根付く前の「本当の日本の姿」を「古事記」などの古代の文献から解釈しようとした。
なかでも、平田篤胤は、日本を天皇を中心とする神の国であるとする「復古神道」を唱えた。「復古神道」では、神道こそ万物の根源であるとして、仏教的な要素を排除した。
平田篤胤に学んだ大国隆正は、神仏分離を主張し、明治元年には神仏分離令が発布され、平安時代から続いてきた神仏習合に終止符が打たれた。神仏分離令によって、神社と寺は明確に区別され、神は仏より格上に置かれることになった。

明治政府の国家理念は、王政復古と祭政一致である。
神祇官が復興され、神社はすべてここに帰属することになった。
神道は、個人の信仰ではなく、国民の精神的支柱とされ、義務となった。
このような国家によって管理された神道を「国家神道」と呼ぶ。

第二次世界大戦の敗戦後、アメリカは、「国家神道」を、日本を戦争へとかりたてた精神的支柱であったとみなし、神社と国との分離を命じた。その後、日本国憲法では、政教分離、信教の自由が定められた。
国家の保護管理から離れ、宗教法人となって再出発した神社は、神社本庁という包括団体を設立した。

なお、「神道」と言うとき、明治時代に国家の祭祀とされた国家神道の他に、宗教としての教派神道があり、黒住教、金光教、天理教などがよく知られている。

神道は、キリスト経やイスラム経のような戒律も聖典もないが、日本人の間に古代から脈々と受け継がれてきた神にたいする畏れと感謝の気持ちを、その特徴としている。

2011年2月5日土曜日

大竹文雄編 こんなに使える経済学

2008 株式会社筑摩書房

大学で教えられているような経済学は、現実の経済とはあまり関係がない。
伝統的な理論経済学では、人は合理的な行動をすると仮定されている。
社会の仕組みを考え、人々が豊かになるにはどうしたらよいかを考えることは、伝統的な経済学ではうまくいかない。そのためには、人がどういう価値を重視するのか、価値観を持っているのかを知らなければならない。
非合理的な行動であっても、共通の行動パターンがあれば、それを経済学に取り込んで分析しようとするのが「行動経済学」と呼ばれる研究分野である。

その一例を挙げると、出世を決めるのは、能力か学歴かを研究した経済学者がいる。
それによると、大学卒の年収は、高校卒にくらべて高い。さらに、偏差値の高い大学のほうが、年収も高いという。
ここで問題になるのは、出世して年収が高いのは、大学を出たためなのか、能力があったためなのかということである。
たとえば、東京大学に入るくらいの能力があれば、たとえ東京大学に行かなかったとしても、もともと優秀なのだから、いずれにせよ高収入を得ていたかどうかである。
東大の卒業生が、東大を出ていなかったとしたらどうなるかを知ることはできない。
ただ、1969年に、一度だけ東大の入試がなかったことがあった。
このとき、東大進学を考えていた受験生は、ほかの上位大学に進んだと思われる。
それでは、この人たちは、普段の卒業生よりも出世していたのだろうか。
こういうことを調査した結果、民間企業の場合は、とくに違いが認められなかったが、官庁の場合は、東大卒の不在で空いたはずのポストを他大学卒で埋めきることはできず、上下の年代の東大卒が占めたという。
これは、たとえ同じ能力を持っていたとしても東大を卒業することが、中央官庁での出世には重要であることを示唆しているという。

私の個人的な感じでは、大卒と高卒の年収の違いは、サラリーマンではあまり無い。
ただ、所得の高い経営上層部は大学卒で占められているため、平均では大学卒が上のほうに引っ張られるのであろう。
東大を卒業することが、官庁では出世の重要な要因となるのは、一般的に受ける感じとだいたい一致しているようである。

2011年2月4日金曜日

大橋弘昌 負けない議論術

2009  ダイヤモンド社

1966年生まれ   ニューヨーク州弁護士

アメリカ人は議論好きであるが、いっぱんに、日本人は議論が苦手で、多少なりとも不利益を被っていることが多い。
著者は、アメリカで生活し、弁護士業というシビアな仕事のなかで、議論する力を培ってきた。

議論術には、次のように、いろいろなものがある。

相手の主張に賛成しながら、相手が述べた理由を用いて正反対の主張を述べる。
短所を指摘されたら、その短所を長所に変える。
主張は、相手を正そうとするのではなく、「私ならこうする」と言って始める。
相手の意見に対してのみ反論を述べるようにし、相手そのものを攻撃しない。
「松・竹・梅」の選択肢を用いると、竹が選ばれやすい。
過去の発言について批判されたら、議論の方向を将来に向けてみる。
感情に訴えることは、議論に負けないための大きな力になる。
あからさまに相手を批判すると、ブーメランのように自分に返ってくる。
不利なレッテルを貼られそうになったら、堂々と反論すべきである。
人の心を捉えるには、前向きさ、勇敢さを前面に出す。
自慢話をするときは、自分の失敗談や弱点を交えて話す。
議論の前に想定問答を行い、準備する。
議論が終われば、議論の相手をたたえよう。

議論においては、相手と「ウィン・ウィン」(Win-Win)の関係を築くことをめざすべきで、一方的に相手をねじ伏せるのは得策でない。
本書の題名のように、「議論に負けない」のが肝心で、「議論に勝つ」ことは必要ではない。議論に勝っても、相手の恨みをかえば、お互いの関係が悪くなってしまう。
相手を満足させて議論を終えることができれは、相手の満足は自分自身のためにもなる。
どんな場面でも、常に「ウィン・ウィン」の議論となるよう心がけるべきである。

最後に、事態が差し迫っていて、議論をしている余裕のないときは、決して議論をしてはいけない。決定権を持つ人が、周りと議論などせず、迷わず物事を決めなくてはならない。素早く、ためらわず行動しないと、手遅れになることがあるからである。
たとえば、リーマン・ブラザーズが破綻した同じ週末に、メリル・リンチはバンカメへの売却を決めた。このときの最高経営責任者のすばやい決断について、ウォール・ストリートの関係者は口をそろえて「見事だった」と賞賛した。
議論よりも即断即決が功を奏することがあるのである。

2011年2月3日木曜日

東急反町

反町公園

2011年2月2日水曜日

ダニエル・ピンク ハイ・コンセプト 「新しいこと」を考え出す人の時代

2006 株式会社三笠書房

大前研一訳

訳者の解説によると、経済のグローバル化によって、中国で生産できるものは中国で、ITなどインドでできるものはインドでというように、少しでも人件費が安くてすむ地域へ産業は引っ張られる。それを日本でやろうとすると、低賃金でないと引き合わない。日本企業も世界中で生産しているから、安いモノがどんどん入ってきて、デフレ傾向に歯止めがかからない。いっぽう、上のほうは、アメリカのプロフェッショナルのような、けた外れの給料をもらっている。
このように、これからは、上と下とが二極化して、いわるゆる「格差社会」になっていく。
では、このような時代には、どうしたらよいのだろうか。
まず、「途上国にできること」は避ける。二つ目に、「コンピューターやロボットにできること」は避ける。三つ目に、「反復性のあること」は避けることである。
新興国やコンピューターにはできない創造性のある能力が重要になってくるという。

本書によると、創造性のある能力を育てるためには、「六つのセンス」が有効である。
すなわち、1.「機能」だけでなく「デザイン」、2.「議論」よりは「物語」、3.「個別」よりも「全体の調和」、4.「論理」ではなく「共感」、5.「まじめ」だけでなく「遊び心」、6.「モノ」よりも「生きがい」である。
これらのセンスは、誰もが持っているが、磨きをかけることによって能力がより高められる。
創造的な能力は「ハイ・コンセプト、ハイ・タッチ」などと呼ばれ、これをマスターできた人は大成功を収め、そうでない人は取り残される。

本書からは、アメリカでも、中国やインドのような新興国の脅威が強く意識されていることがわかる。
しかし、見方をかえると、中国やインドの歴史は古く、古代文明発祥の地でもある。
新興国には単純なことだけやらせ、先進的なことはアメリカでと言っても、いつまでもそうはいかないだろう。アメリカ人や日本人が、いくらインド人や中国人に負けまいとしても、そのうち、追い越されるのかもしれない。
いっぽう、独自のものを創ることができることが重要なのは、どこの国に居てもおなじである。

2011年1月29日土曜日

細谷功 地頭力を鍛える

2007 東洋経済新報社

インターネットによる情報検索が発達し、あらゆる情報が容易に手に入るようになった。いっぽう、情報への過度の依存は思考停止をまねくことになりかねない。
インターネットやパソコンでは不可能な、本当の意味での「考える力」こそ重要である。
この基本的な「考える力」の基礎になる知的能力を「地頭力」(ぢあたまりょく)という。「地頭力」という言葉は、コンサルティング業界などで使われている。

地頭力は、三つの思考力(「結論から」「全体から」「単純に」考える)、および、それらの基礎となる三つの力(論理思考力、直観力、知的好奇心)から構成される。
地頭力は鍛えられるものであり、その具体的な訓練のツールが「フェルミ推定」である。

「結論から考える」仮説思考は、いまある情報だけで最も可能性の高い結論(仮説)を想定する。つぎに、情報の精度を上げて検証を繰り返し、仮説を修正して最終結論に至る思考パターンである。

「全体から考える」フレームワーク思考は大きく全体を見渡して、とらえた全体像を最適の切り口で切断し、断面をさらに分解する能力である。

「単純に考える」抽象化思考は、対象の特徴を抽出して単純化した後に一般解を導きだし、それを再び具体化して個別解を導く思考パターンである。

「フェルミ推定」とは、物理学者エンリコ・フェルミが得意としたので名付けられた。
「東京都内に信号機は何基あるか?」とか「世界中にサッカーボールはいくつあるか?」といった問題に対して、何らかの推定ロジックを使って短時間で概数を求める方法のことである。

フェルミ推定の解答プロセスのなかで、以上の三つの思考力を駆使することにより、地頭力を鍛えることができる。

ところで、頭の使い方には、地頭力のような思考能力の他に、知識が豊富な「物知り」、対人感性が高い「機転がきく」という能力もある。
思考能力だけだと、どうしても、「智に働けば角が立つ」ことになりやすい。
「とかく世間は住みにくい」という言葉の通り、能力があったとしても、使いこなすのは難しい。