2010年12月1日水曜日

中村隆英 昭和史Ⅱ 1945ー89

1993 東洋経済新報社

1925~

1945年8月15日の敗戦は、国民にとって、晴天のへきれきであった。
それでも天皇によるラジオ放送の効果は絶大で、軍隊は平穏に武装解除し、アメリカ軍による占領はスムーズに行われた。
国民は、虚脱感におそわれたが、ほどなく解放感にひたった。
アメリカ軍による統治は、直接にではなく、まだ残っていた日本の官僚機構を通じた間接統治であった。
占領軍の政策は、日本の民主化と軍事的無力化であり、誰もが昨日までの態度を一変させて「民主主義」を叫んだ。
政治では、鳩山一郎がGHQによって公職追放され、追放を解除されたら政権をかえすという条件で、吉田茂が首相になった。
吉田内閣のもとで、アメリカの原案をほぼ受け入れ、象徴天皇制と戦争放棄、国民主権を特色とする新憲法が施行された。

やがて、アメリカとソ連の冷戦が深刻化すると、アメリカの日本に対する態度も、日本を弱体化しようとするものから、対共産主義の同盟国としてのものに変わっていった。このようななかで、吉田茂は、アメリカとの間で、サンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約を締結した。
日本の独立を回復し、同時に日本の防衛をアメリカに肩代わりさせることによって、できるかぎり軍事費を削減して、経済的復興に注力しようとした。

経済復興が一段落してからは、いわゆる55年体制のもとで、議会の三分の二を占める自民党の安定した政権によって、政治は経済の成長と発展を支援した。
自民党支配が安定した結果、党内の派閥抗争が激しくなったが、基本的政策を変えるものではなかった。
しっかりとした官僚制度にも支えられて、1970年代になると、日本は世界第二位の経済大国にまで成長した。

昭和の時代は、ソ連の誕生とその崩壊とに時間的に、ほぼ一致する。
戦前、日本は、国内においては共産主義に神経をとがらせ、満州でソ連と長大な国境を接することになり、ソ連軍は日本軍の最大の敵であった。それに備えて、日独伊防共協定や三国同盟がむすばれた。
戦後も、マルクス主義やマルクス経済学は、学問の世界で主流になったことがある。
ソ連の崩壊後、マルクス主義は相手にされなくなり、社会党も衰退していった。
東西の冷戦構造が解消し、世界が新しい段階に進んで行くことにより、冷戦構造によって政治的、経済的に恩恵を受けていた日本の立場も変化することになった。

昭和の時代は、まさに激動の時代であったが、そのなかでも、変わったものと、変わらないものとがあった。
とくに都市の外観や人々の暮らしは大きく変化した。
いっぽう、人々の考え方や行動は、あまり変わらなかったようである。

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