2010年11月26日金曜日

半藤一利 昭和史 1926-1945

2004 株式会社平凡社

1930年生まれ

「昭和史の根底には”赤い夕陽の満州”があった」、つまり、日本は日露戦争以来、ロシアからの報復を恐れ、日本を守るためには、当時は「満州」と言われていた中国東北部を確保することが絶対に必要だと見なされた。
満州に派兵されていた日本軍は、関東軍と呼ばれていたが、関東軍は日本の満州での地位を確固としたものにするため、満州国という傀儡政権を作るべく、満州事変を起こした。満州事変は、一部の軍人が勝手に起こしたもので、本来、厳罰に処せられるべきであったにもかかわらず、何のとがめもなかった。国際世論は、満州国を認めず、日本は国際連盟を脱退した。
その後、二・二六事件は、天皇の命令によって鎮圧されたが、これ以降、軍人によって政治が操られるようになった。中国にいた日本軍は、自分たちの手柄をたてようとして、ますます軍事作戦を拡大させていった。たとえば、憂国の青年将校の議論は、ソ連をたたくか、それとも中国が先かといったことで、とにかく、戦争がしたくてしかたがなかったのである。これに、マスコミも便乗して、ますます国中が、戦争一色になっていった。
アメリカと戦って勝つと思う人は、さすがにいなかったにもかかわらず、いずれはアメリカと戦わざるを得ないという空気が支配的となっていった。アメリカとの交渉が行きづまって、ついに戦争せざるを得なくなったが、アメリカも、また、日本を挑発したのかもしれない。
昭和天皇は、戦争をしたくなかったにもかかわらず、軍人の暴走を止めることはできなかった。しかし、最後に日本が降伏することになったのは、天皇の決断によるものであった。
この戦争では、三百万人以上の犠牲者を出した。それにしても、何とアホな戦争をしたものだと、著者は嘆いている。
昭和のはじめの20年間の教訓は、第一に国民的熱狂を作って、それに流されてはいけないということである。そうなると理性的な考え方が押しやられてしまい、アメリカと戦うなどという、してはならないことをしてしまう。
マスコミに煽られると同時に、自らも望んで、「ニッポン、ニッポン」と熱狂してしまうところが日本人の国民性にはあるらしい。

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