2010年9月19日日曜日

加来耕三 徳川慶喜とその時代

1997 株式会社立風書房

1958年生まれ

幕末の歴史年表を見ると不思議に思うことがある。
1867年、幕府は「大政奉還」しているのに、なぜか、翌年、鳥羽伏見の戦いで「賊軍」とされている。
そこで、この間の事情を見ると、1867年、密かに成立した薩長連合は、討幕の計画を立てていた。
これに気付いた慶喜は、先手を打って、この年の10月、「大政奉還」して政権を朝廷に返上した。慶喜の本音は、何の実力もない朝廷は、どうせ幕府にいままでどおりまかせるよりないというものであった。そうなれば、朝廷の威光も借りて落ち目になった幕政を立て直すことができる。
その時、京都にいた慶喜は、幕府軍を率いて、大阪城に退き、京都を牽制することにした。
いっぽう、あくまで武力による討幕を目指していた薩長連合は、事態の推移に焦り、西郷隆盛の企みによって、江戸の薩摩浪士に乱暴を働かせて、幕府を背後から挑発した。
翌年の正月早々、幕府軍は、薩摩を討伐するため、京都に向かって兵を進めた。
鳥羽・伏見の戦いでは、戦いの準備をしていた薩摩の軍勢に準備不足の幕府軍は敗退した。
この戦いは、官軍側が、軍事的に圧倒的優位であったというわけではなく、あらかじめ戦うつもりであったのと、密かに作成しておいた「錦の御旗」を振りかざしたことが、勝利につながった。
それでも、なお、慶喜が大阪城に踏みとどまって抗戦すれば、官軍が必ず勝つとはかぎらなかった。
事実は、慶喜は、大阪城を脱出して、軍艦で江戸に逃げ帰り、幕府軍は崩壊した。
このときの慶喜の本心は、どうだったのだろうか。
実戦に怖じ気づいてしまったのか、それとも幼少から身についた水戸学(注)が影響して、徳川家を「朝敵」にすることに耐えられなくなったのだろうか。
こうして、岩倉具視、西郷隆盛、大久保利道らによる討幕計画は成功して、新政府が成立し、大部分の藩はこれに従った。
慶喜は、これ以降、明治の世の中で表舞台に出ることはなかった。
討幕に成功した側も、日本をどのような国にしようという明確なビジョンがあったわけではなく、しばらく混乱の時代が続くことになる。

(注)水戸学:藩主徳川光圀の「大日本史」編纂に由来する。尊王攘夷運動に大きな影響を与えた。

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