2009年12月30日水曜日

池田晶子 人生は愉快だ

2008.11 毎日新聞社

池田晶子 1960~2007

著者は、専門用語による「哲学」ではなく、日常の言葉で語る「哲学エッセイ」を確立した。47歳の若さで病魔に倒れた。哲学というと、昔は考えることがすべて哲学であったが、時代を経るにしたがって、数学や科学などの学問が、別れていった。
今でも哲学の課題になっているのは、「自分とは何か」とか「死とはなにか」といった問ではないだろうか。
著者によれば、結局のところ、「自分」も「死」もない。
なぜならば、人が死を認識できるのは、他人の死を見るときだけである。
自分が死んだときは、自分はもういないのだから、自分の死を知ることはできないし、考えることもできない。
「自分」についても、近代以降の人間が個人というものを信じ込むことになったにすぎず、「自分」とは、個人に限定されるものではなく、人類や精神というもののなかで存在する不思議なものである。
思索が個人を超えていくとき、「自分は誰それだ」という思いこみから開放されるのである。
「少なくとも、死が恐かったり、今の人生にしがみついている自分がなさけなかったりするなら、そう考えればいい。人間はまだ、死をおしまいと考えていますが、ひょっとしたら、死は始まりかもしれないのです。」(p281)
なるほど、「自分」とは、過去の「他人」の言葉や考え方の寄せ集めである。

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