2009年8月27日木曜日

諸井薫 定年で男は終わりなのか

1999 株式会社主婦の友社

1930~2001

サラリーマンは定年後、どのように生きるか。
著者によれば、実は自ら好んでそうなったのではない「一見悠々自適型」のケースがもっとも多いという。「一見悠々自適型」は、そこそこの蓄えを持っているのではないかと他人からは勘ぐられ、働いて収入を得なくともなんとか老後を暮らせそうだというので、嫉妬の対象にすらなりうるという生き方である。
じっさいは、優雅な老後というにはほど遠く「やり場のない鬱屈を抱えての怏々の日々」を過ごしている人が多いのである。社長を勤めた著者の知人ですらこれであるから、おおかたは推して知るべしである。

社内にしろ社外にしろ、会社関係のつきあいは、なかば強制的なものであるから、会社をやめればつきあいにくくなる。OBが元の会社に来ても煙たがれるだけであるのは、会社に勤めたことのある者なら知っている。それでは昔よく通った飲み屋にでもと言われても、これまた行きにくくなるものらしい。「終身雇用制」のもとでは、共同体としての会社は依存心の強いサラリーマンを作り続けてきた。それでも、会社における「定年」は、学校における「卒業式」にあたるから、退職者は忘れられていく。

「『不安』になった自分を自ら慰め、友人知己はもちろんのこと、妻や子でさえ、『余生』の伴走者たり得ないことに気づいたとき男たちは、世の中に背を向け、世を捨てて生きることこそ最も『平穏な余生』であることを思い知るのではあるまいか」(p17)

著者は六十代半ばを過ぎたら、死の覚悟だけはすべきだが、あとは周囲に余分な気遣いをしながらこせこせ生きるのはやめて、諸事、我儘気儘の自然体に徹するべきであると言う。
著者の言う「我儘気儘の自然体」とはどういうことか。せっかく与えられた「長期休暇」を使い、文学、芸術、学問などに打ち込もうというのなら悪い話ではない。このように、若い頃できなかったことにチャレンジするのは、なかなか意味のあることである。しかし、体力、気力が充実し、場合によっては金銭的余裕が無ければ、時間だけあっても動きが取れない。
しばしば言われているのは、「無為の日々」が、生活のリズムを崩して無気力かつ怠惰な生活につながり、老化を早めるということだ。
とは言っても、「無為の日々」をおのずから楽しみ、若いときの良い思い出やにがにがしい後悔に身を任せるというのも老年ならではの生き方であり、それこそ「我儘気儘の自然体」ということになるだろう。
つねに追い立てられるように前ばかり見ている過去の無い人生では、何のために今まで生きてきたのかわからない。
人生において老年期は、総括の時であるとすれば、良い過去も悪い過去も振り返ってみることは老年における仕事であり、その結果、明るくなろうが、暗くなろうがかまわないのではないだろうか。自然体に振舞えば、明るくもなり、暗くもなるのである。

著者自身は、サラリーマン生活引退後も文筆活動を続け、この本が出てから2年後に病気のため亡くなっている。「息絶えるまで書き続けていたいのが、作家の業」という著者であるが、人生最後まで頑張った人であったらしい。

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