2001 大貫妙子・江沢洋訳 岩波書店
R.P.ファインマン 1918~1988 アメリカの物理学者 ノーベル物理学賞受賞
原爆の製造にも関わった。当初、物理学者は敵(ナチス)が同じものを先に作ったら大変なことになるということで協力したのだという(敵側の科学者も同じ知識を持っていた)。
しかし、ナチスが敗れてのちも研究は続けられ、広島や長崎に原爆が投下された同じ時にロス・アラモスの研究所では物理学者の祝賀の騒ぎがくりひろげられていた。
「はしがき」より
「ファイマンはいつも、彼が物理を研究するのは栄誉のためでも賞や賞金のためでもない、楽しいからなんだ。世界がどんな仕組みになっていて、何がそれを動かしているのかを突き止めていく、それが楽しくて仕方がないから物理をやるんだ、と言っていた」
「ものごとをつきとめることの喜び」p4より
「僕はどうも科学に偏った人間で、特に若い時はほどんど全力をこれに注ぎ込んだものだ。その年ごろにはいわゆる人文科学というものを勉強する暇も、心のゆとりもなかった。もちろん大学では人文系の必修科目というものもあったが、僕はありとあらゆる策を弄して、ついに何とかお茶を濁してしまった。
少しいろいろのものに手を広げる余裕ができてきたのは、こうして年を取ってからのことだよ。デッサンを習ったり、読書も始めたが、何といってもやっぱり僕は実に偏った男でね、お世辞にも蘊蓄のある人間とは言い難い。僕の知能には限界があるから、これを一つの方向に集中して使うことにしているんだよ」
p33より
「科学が成功したせいで、一種の疑似科学といったものが生まれたと僕は思うね。その科学でない科学の一例が社会科学だ。なぜかと言うとあれは形式に従うだけで、科学的な方法に従っていないからだよ。データを集めてみたり、もっともらしくあれやこれややってはいても、別に法則を見つけるわけでもない、何も発見していない。
・・・・僕は何かを本当に知るということがどんなに大変なことか、実験を確認するときにはどれだけ念を入れなくてはならないか、まちがいをしでかしたり、自分をうっかりだましてしまったりすることがどんなにたやすいかを、肝に銘じているからなんだ。何かを知るということはどういうことなのか,僕は知っている。だが連中の情報の集め方を見ていると、なすべき研究もせず、必要な確認もせず決して欠かせぬ細心の注意も払っていないじゃないか。だから彼らが本当に知っているとは信じられないんだ。
彼らの知識は本物ではなく、やっていることもまちがっているのに、偉ぶって人を威圧しているんだと思えてしかたがない。僕は世間のことにはうといが、とにかくこう考えるね。」
たしかに、たとえば現在主流の経済学では、難解な数学で表現されているが、実験もできないし、実証的な面も軽んじられている。
理論経済学または新古典派の経済学では、きわめて限られた条件のもとでの理論的整合性はあるが、現実妥当性については疑問も多い。そのため、つねに「理論モデル」での話になる。
数学の定理や物理の法則は、一般には「真実」とされているが、経済学の場合は、「そういう考えもある」という受け入れ方をされているので、「何々経済学派」の経済学と言われている。
大学の経済学部というのは、学者や学派間の対立・抗争がはげしいところである。
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