2009年7月9日木曜日

吉永良正 ひらめきはどこから来るのか

2004 株式会社草思社

1953年生まれ サイエンス・ライター

p39より
「そもそも『考える』という行為は、つねに何かについて考えるのである。また、思考の過程が脳の生理作用によって担われているのは事実にしても、だからといって脳が考えているとはいえない。身体と感覚があって始めて、脳の生理作用も作動する。脳だけしか見ないのは抽象論でしかない。
考えることの全体性が最も自然に表出されるケースの一つが散歩、つまりは無心に歩いている時ではないかと思う。それは恐らく、日常生活の諸問題やそれに伴う問題解決のための制約的な思考の枠が、いったん意識からはずされるためだろう。考えに詰まったら、書もマウスも携帯電話も捨て、散歩に出よう。思わぬ発見やひらめきに出会えるかもしれない」

昔から「下手な考え休むに似たり」という。無理に考えない。しかし、考えもなしに行動しない、なかなか難しいのだ。また、よく考えるよりも直観に頼って本能的に行動することが正解であることも多い。

p56より
「何ごとにも、現代は急ぎすぎる。なぜそんなにあわてふためいて、一秒一刻を競い合わなければいけないのか。一見して非生産的に見える潜伏期という名の幕間、この無為と混乱と苦悩の時間の蓄積こそ、『考える力』を大きく育てる揺籃であり、突然のひらめきによる新しい世界の幕開きを準備するものなのである」

私は若い頃から、なにをやってもこれは自分の本当にやりたいことではないというような感覚にとらわれていた。今から考えると、こうした感覚は、はたして何の意味があったのだろうと思わないわけにはいかない。
それにしても、いくら考えてもほとんど新しい考えも出ないで歳を取っていく人のほうがはるかに多いのが事実であろう。

昔から還暦といえば、一仕事終える時である。これから始めるとしても、あせったところで仕方がない。
過去の先人達の業績を忍び、少しでも理解できれば、というくらいの気持ちである。

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